もうだいぶ以前のことである。毎朝野鳥の鳴き声を流すNHKのラジオ番組があった。…深山、渓流らしき水音。鳥の鳴き声が響く。女性アナウンサーの落ち着いた声が続く。「アカショウビンです。アカショウビンです」…その野鳥の名を彼女は二度繰り返すのだ。森の中、静寂、また鳥の鳴き声が響く。「ルリビタキです。ルリビタキです」と鳥の名が告げられる。
「オオルリです。オオルリです」…おそらくオオルリの美しいさえずりも、このように紹介されたに違いない。
光君は後頭部に大きな瘤を持って生まれた。それは切除されたものの重い知的障害を残した。光君は生まれてからこのかた、ほとんど発語したことがない。おそらく耳も不自由なのではないかと思われた。ある年の夏、光君の家族は避暑のため涼しい高地の別荘で過ごすことになった。…森に囲まれた家である。 どこかで野鳥の鳴き声がした。「アカショウビンです。アカショウビンです」…と光君の唇から言葉が出た。夫妻は驚き互いの顔を見つめ合った。そして光君を見つめた。また林の中から別の鳥のさえずりが聞こえた。「ルリビタキです。ルリビタキです」と光君が言った。それは本当にルリビタキの鳴き声である。… 東京の家では毎朝ラジオを付けっ放しにしていた。光君はそれをじっと聞いていたのであろう。その夏、彼は聞こえてきた全ての野鳥の声を認識し、その鳴き声の主の名を正確に言い当てることができた。
「サンコウチョウです。サンコウチョウです」「キビタキです。キビタキです」「クロツグミです。クロツグミです」「コガラです。コガラです」「チョウゲンボウです。チョウゲンボウです」「センダイムシクイです。センダイムシクイです」「オオルリです。オオルリです」
大江健三郎夫妻は、光君の音に対する類い希な才能を知り、大きな希望を抱いた。
オオルリは飼育を禁じられている鳥である。コルリやルリビタキと同様、その名の由来となった羽色は瑠璃色で、その美しさは青い宝石と呼ばれるカワセミと双璧をなす。またオオルリの美しいさえずりは、ウグイスやコマドリと共に日本の三大鳴鳥のひとつに挙げられている。
丸山健二の「千日の瑠璃」は、一羽の美しいオオルリと、ぐにゃぐにゃと不規則に揺れる肉体を持った少年の、千日に渡る物語である。
小さな湖「うたかた湖」とそれを見下ろす急峻な丘のある、倦怠をおびた町「まほろ町」で、日常の些末な出来事と感情、事実と現象を、人間以外の生物や非生物、抽象概念が、その日その日の「語り部」となって壮大な交響詩を創り出していく。
私は風だ。
うたかた湖の無限の湧水から生まれ、穏健な思想と恒常心を持った、名もない風だ。…
足早に冬が忍び寄る秋、うたかた湖で釣りをしていた老人がくずおれ、水の中にその頭を漬けて息絶えた。懐炉を忍ばせたまだ生暖かいその懐に、飢えと寒さで衰弱しきったちっぽけな幼鳥が隠れた。どこからともなく現れた少年が、彼の祖父である老人を発見し、素っ頓狂な声を挙げる。懐に隠れていた幼鳥が その声に応えるように鳴いた。少年と幼鳥の目が合う。少年は自分のマフラーにその幼鳥を包み、泥酔者より無様な足取りで立ち去る。すでに少年は祖父のことを忘れている。今の彼にとっては、このマフラーの中に保護した衰弱した鳥が全てなのだ。こうして少年とオオルリの千日が始まる。
私は闇だ。私は棺だ。私は鳥籠だ。私はボールペンだ。私はため息だ。私は九官鳥だ。私は雨だ。私は風土だ。私は口笛だ。私は噂だ。私は靴だ。… この物質名詞、抽象名詞の語り部が描き出すものは、塵のように堆積する日常という退屈な現実の隅々である。そしてオオルリの青い羽根にも似たお気に入りの青いセーターを着続け、時も場所も関係なく、町のどこにでも不意に出没する不幸な肉体を持った少年の実存である。病のため覚束なく揺れ動く肉体とは裏腹に、少年は人界のあらゆる規則や観念の拘束から、揺るぎなく自由なのであった。
剣呑なヤクザ者も、少年の姿を認めると、いつもの荒々しい言葉を失い、黙って彼に道をあけるのだ。ふらふらと揺れる頭、大きく曲り捩れた身体。曲がった口元から流れ続ける涎と唸り声のような不明瞭な言葉。少年は慈しんでやまぬ美しいオオルリと共に「生きた」。やがて、少年の口から意外な言葉が洩れる。「もう生きた。もう生きた」
うたかた湖に面した崖の高みの揺らぎ岩に少年はよじ登る。彼は揚力を確信した。飛行に際し籠の鳥を放つ。それは初夏の光の中で、まさしく瑠璃色の塊と化し、少年が目指そうとする方角へ一直線に飛び去り、現し世の青に吸い込まれて消える。彼の心はオオルリに化していたのだろう。少年もやおら光の中 へ飛び出す。…
丸山健二は、思索に向いた硬質な言葉ながら、詩の風韻を漂わせ、日本の古典文学を継承した言霊の綴り手である。彼は狷介にして孤高の作家である。「文学賞」の無礼な馬鹿騒ぎに嫌気がさし、長野県安曇野の小さな町に引っ込み、爾来書き下ろし作品と作庭にいそしんでいると聞く。
ノーベル文学賞の選考基準が那辺にあるか知らないが、もしもそれが、時空を超え世界的な普遍性を有し、かつ確固としたとしたナショナル・アイデンティティを持ち、しかも極めて実験的な文学、であるなら、丸山健二はその全てが当てはまる作家だろう。しかし彼は世界に知られる作家ではなく、たとえ万が一選ばれても、おそらく受賞を拒否するに違いない。彼は凶暴なほど、実際の価値とは無関係なそういったものを嫌悪するのである。その傲岸不遜にも思える不器用な生き様は、イギリスの作 家J・P・ドンレヴィーにどこか似ている。
「神よ憐れめ、この凶暴な赤毛の男を。」(小笠原豊樹訳「赤毛の男」)
散文詩のような小説「赤毛の男」を書いたドンレヴィーの家には、聖書と自著「赤毛の男」以外の書物はなかったらしい。この世界で読むに値するものは、その二冊だけだと言ったそうである。
丸山健二の家に他の作家たちの本がどれだけあるか知らないが、彼もドンレヴィー同様、自分の文学以外は読む価値もないと思っているのではないか。丸山健二はそれほど文壇から孤絶し、狷介な人なのである。しかし少なくとも私にとって「千日の瑠璃」は、この世界で読むに値する一冊だと思われるのだ。
私はいつもの風だ。
うたかた湖のゆたかな湧水と、序次を踏んでまほろ町へ押し寄せる気団から生まれる、特に名もない、いつもの風だ。…
丸山健二「千日の瑠璃」(文春文庫)
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