米沢には 歴史上有名で人気のある武将が5人もいます
今日はそのうちの3人をご紹介します

上杉謙信

上杉家の16代目にあたる人物で、1530年1月21日に越後国(現在の新潟県)生まれ、
天文22年(1553年)に越後国の領主になりました
戦国時代の武将中でも特に戦術に長けた上杉・武田両氏による「川中島の合戦」は有名ですよね
この戦で謙信が使用した琵琶の名器「朝風」と信玄を斬りつけたという長光の名刀は、
今も上杉神社↓にあります

上杉景勝と直江兼続

景勝は弘治元年(1555年)に越後国の長尾政景の次男として生まれ、上杉謙信の甥に当たります
仏門に入り子どもが居なかった謙信の後継ぎとして 養子に迎え入れられました
豊臣秀吉への忠誠心を評価され豊臣家五大老になり、会津120万石を治める藩主となりました

しかし、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いがおこり、
景勝たち西軍は家康率いる東軍に敗れ、景勝は家康に降伏することになります
慶長5年(1601年)、会津120万石から米沢30万石へと減移封されてしまいました
米沢城へと移り住んだ景勝は直江兼続とともに、
早急なまちづくりと 減封によって苦しくなった藩の財政難の建て直しに着手しました

直江兼続は永禄3年(1560年)、坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれました
小さいときから非常に聡明で、上杉謙信の実姉であり景勝の母(長尾政景の妻)である仙桃院の目にとまり、
景勝の小姓としてつかえることになりました
兼続6歳、景勝11歳の時のことです
二人は坂戸城近くの雲洞庵でともに学び、ともに遊び、生涯にわたる絆を築き上げました
おまけ
お堀の水に浸かりそうになりながら、
休憩する鳥さん

他にもいっぱい場所があるのに、何故そこに
おまけ2
醍醐もキャットウォークにチャレンジしました




軽やかに渡りきったけど、登ったのはこの1回のみでした
みんにゃ もっと使って~
おきてがみをはじめました
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戦国時代の武将中でも特に戦術に長けた上杉・武田両氏による「川中島の合戦」は有名ですよね
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景勝は弘治元年(1555年)に越後国の長尾政景の次男として生まれ、上杉謙信の甥に当たります
仏門に入り子どもが居なかった謙信の後継ぎとして 養子に迎え入れられました
豊臣秀吉への忠誠心を評価され豊臣家五大老になり、会津120万石を治める藩主となりました

しかし、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いがおこり、
景勝たち西軍は家康率いる東軍に敗れ、景勝は家康に降伏することになります
慶長5年(1601年)、会津120万石から米沢30万石へと減移封されてしまいました
米沢城へと移り住んだ景勝は直江兼続とともに、
早急なまちづくりと 減封によって苦しくなった藩の財政難の建て直しに着手しました

直江兼続は永禄3年(1560年)、坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれました
小さいときから非常に聡明で、上杉謙信の実姉であり景勝の母(長尾政景の妻)である仙桃院の目にとまり、
景勝の小姓としてつかえることになりました
兼続6歳、景勝11歳の時のことです
二人は坂戸城近くの雲洞庵でともに学び、ともに遊び、生涯にわたる絆を築き上げました
おまけ
お堀の水に浸かりそうになりながら、
休憩する鳥さん

他にもいっぱい場所があるのに、何故そこに

おまけ2
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軽やかに渡りきったけど、登ったのはこの1回のみでした
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