5月20日 、前日に引き続き、朝からお昼過ぎまで足立美術館。
それから、徒歩で飯梨川の太平寺橋を渡り(このすぐそばに宿の「夢ランド しらさぎ」があります)、西に向かって右折し、土手の上を行きますと、約1時間で月山の麓にある安来市立歴史資料館に着きます。
15世紀から16世紀末の戦国時代、月山富田城跡は尼子家の居城で、1566年、尼子家と毛利家の存亡をかけた戦いで、尼子義久は毛利元就の軍門に帰し落城しました。その後も、尼子家再興のために一生を捧げ「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」との言葉で有名な山中鹿介幸盛ゆかりの地でもあります。
花々を励みに峻険城跡へ
月山は標高が256メートル、歩行距離は3キロとのことでしたので、2時間もあれば往って帰ってこれるだろうと少し高をくくっていましたが、先の資料館の方が、「3時間は見ていた方がいいですよ、杖も外に用意してありますからお使いください」とのこと。登り始めてみれば、ご説明の通り山道の勾配は急で、杖に助けられました。難攻不落のお城と言われている所以にも体で納得。
喘ぎあえぎ登っていた時に出逢ったのが写真のお花、タンポポです。レンズの先で話しかけ、励ましてくれるような気がしました。
下の写真は安来市立歴史資料館にあるジオラマです。お城への道の峻嶮さが一目で分かりますが、これを見た時点では実感できていませんでした。
がんばれと雲雀におされ城跡へ
遠くに城跡とおぼしき景が見えはじめるところまで登ってきた時、出逢ったのがこのお花です。どんよりした曇り日で、登っているのは私だけの、ちょっと心的には不安な状況。この彩りの薊(アザミ)は初めてで、棘状の厳しさの中にある紫色の彩りの優雅さに惹きつけられました。雲の彼方からは、姿は見えねどハイピッチで元気な雲雀の囀りが聞こえてきます。
登り来る薫風難攻城の跡
今から500年から450年前、この峻嶮な山肌で、下からはよじ登り、上からは蹴落とそうとする人間の血みどろの死闘が長い年月にわたって繰り広げられました。今、その場で、人間の業にやるせなさを感じつつ、新緑におおわれたこの急な斜面を登り来る薫風につつまれています。
新緑の城跡遠く興亡史
月山富田城の本丸跡です。古戦場跡を訪ねる度に、遺跡が少なければ少ないほど、そこでの歴史に想いがつのります。人間の性(さが)をうら悲しく思い、しかし、その性に起因する長い長い人間の業の積み重ねのごくごく微小な一つとして、今の自分と自分の生活がある。歴史に謙虚に、今あるをありがたく、合掌・・・。
城攻めの行く手横切る蟻の列
下山途中でこの光景に出逢いました。
上掲句を読まれた俳句仲間の福良好さんが以下の素晴らしいコメントを寄せてくれました。「 人が戦に明け暮れている時でも動物の世界では日々の営みを何世代も続けている。きっと、死線に向かう戦士達も蟻の列を見てそう思ったに違いないと思う句です。」
この福良好さんのコメントへの私の返信です。「福良好さん,こんばんは!深い読みですね~! そこまでは思いませんでした。でも、解説されてみれば、納得です。小生は自然の営みの不思議さの一光景に出会った喜びと、偶々城跡での蟻行列との出会いでしたので、お城の熾烈な攻防戦とが重ねて思い起こされた次第です。戦士の心境までには思い至りませんでした。ありがとうございます。秀山拝」
宿入りを待ちて雨ふる初夏の旅
月山富山城跡には、歴史を想い、575の言葉をひろい、写真を撮りながら、3時間近くいました。重い足を引きずりながらの帰路、15時頃、神宮橋で出逢った野の花畑です。菜の花畑と同じくらいタンポポのお花畑が好きです。ここから宿まで徒歩で30分の道のり。空はどんよりしていて、雨に降られたらやだな~、と思いながらトボトボと歩いていましたが、宿の軒をくぐりかけた時、雨が降り始めました。ありがたいことに、今回の旅も、お天気ではラッキー続きです。
興亡史ありてし今が 冷一本
今日は朝早くから夕刻まで、長く、中身の濃い一日でした。足立美術館では、大自然の中での優雅・繊細な枯山水と、心安らぐ日本画の数々。月山富山城跡では、峻嶮で難攻不落の城跡での人の性・業・歴史への想い巡らし。宿に着いたら雨、の幸運。露天風呂に直行し、湯面(ゆおもて)に雨の織り成すリズミカルな自然の芸術を鑑賞しながら、一日を振り返りました。疲れも心地よくほぐれていく感じです。
湯上りの夕餉。今、在ることに感謝し、冷や酒で乾杯。
明日はいよいよ帰京。明朝は宿から足立美術館まで徒歩20分、持ち運びには便利とはいえサイレントギターがありますので、この間に雨が振らなければ助かるのだが、と思いつつ就寝・・・
宿を出る朝にはあがる初夏の雨
朝の日にはえる新緑 露天の湯
翌朝、嬉しかったですね~、しかも、青空が見えます。露天風呂のいい写真が撮れそうと思い、他のお客さんが来られる前の早い時間に行って撮った写真です。青空、白い雲、朝日を浴びる緑と深紅の若葉、そこにポツンと灯籠、 湯に居るは我一人・・・
雨あがりぬ ビール注文宿の朝
朝食では家でも旅先でもお酒は飲まないのですが、心配していた雨が上がったこの日の朝は、何となく気分がビール小を注文していました。鍋はドジョウではなく、Ham & Egg sunny side up 。
美と歴史学び晴ればれ初夏の旅
飯梨川より足立美術館を望みて
飯梨川より月山富田城跡を望みて
最奥の山並みに木々が点々としている処が城跡
この地では美術館と古戦場跡を訪れることができ、充実した二日間を過ごすことができました。また、良い友人を持つことのありがたさの一つを改めて知ったところでもあります。友は自分一人だけの世界を広げてくれます。
今回の旅を計画する時には、月山富山城跡の存在を知りませんでした。それが足立美術館の近くにがあることを教えてくれたのは高校の後輩。早速インターネット地図で調べてみれば、泊る宿が城跡と美術館のほぼ中間点で、しかも歩ける距離であることが分かりました。今回の旅の一日目、金沢・やました旅館で大学の友人に月山富山城跡を行く予定と話しましたら、一人が尼子家と毛利家の攻防史をとうとうと語ってくれました。私の月山と城跡への想いは膨らみました。
今回の旅の最後の訪問地となる「和幸博物館」の存在も、高校の後輩が教えてくれました。安来駅から徒歩15分のところにあります。
5月21日朝、宿から歩いて足立美術館に向かい、そこで安来駅行の始発シャトル0920発に乗りました。0940に安来駅着、そこから少し歩きますと漁港があり、海に沿ってのどかな風景を楽しみながら和鋼博物館に向かいます。
魂をこめ神やどる日本刀
和鋼博物館には10時から3時間ほどいました。この間、静かな感動の連続でした。出会った事実が大きく、私の句力では季語を入れることができず、初めて知った事実の感動をただ報告する575となりました。館内撮影禁止でしたので、写真は館の方が撮ってくれたこの一枚のみです。
私は小さい時に剣道を少々習っていまして、日本刀を両手で押し頂いて持ったことはありますが、この写真のように柄だけをもって構えたのは初めてです。ずしりとくる剣の重さに驚きました。この剣を振り回し、しかもこれで人を切るということは大変な力と技がいるのだろうな、と思いました。
何の予備知識もないままに和鋼博物館に入りましたが、そこでの充実したビデオ案内と館員の懇切丁寧な説明で、日本刀の原材料である玉鋼(たまはがね)が戦後40年を経て払底し、日本刀を作れなくなる危機があったことを初めて知りました。日本刀の特性は「折れず、曲がらず、よく切れる」というもので、この「硬にして柔」という相反する物の質を昇華・統合するのが、玉鋼と刀をつくる匠の技だそうです。そして、日本刀は美しい芸術品です。この日本刀が作れなくなる・・・
日本刀制作過程での厳しい鍛錬に耐え得る純度の高い玉鋼は、古代から伝承された人力と技術による「たたら吹き」製法でしか作れないとのことです。現代の先端技術を駆使して作られた玉鋼に類似した鋼は、刀への鍛錬の途中で折れてしまったり、この鋼で作られた刀は炭素量が足りずに脆い仕上がりになってしまったそうです。人手による古代製法はコスト効率が悪く、玉鋼の生産は縮小し、古代からの伝承技術を会得した匠の後継者もいない、という日本刀制作の危機に直面したのです。そこで、1977年、日本美術刀剣保存協会が、文化庁の後援と ㈱日立金属安来製作所の人的・技術的支援を得て、かつての「靖国たたら」の跡地(島根県仁多郡奥出雲町)に「日刀保たたら」を建設しました。世界で「たたら吹き」製法が残されているのはここだけとのことです。「日刀保たたら」が、刀匠に玉鋼を安定供給すると同時に、「たたら吹き」による玉鋼の製造と伝統技術の伝承、技術者の養成を担っているのです。
和鋼博物館は、 ㈱日立金属安来製作所の前身が開館・運営していた「和鋼記念館」が1993年に安来市に移管されたものです。現在も、実質的には、日立金属安来製作所の人的・資金的支援の下に運営されているようです。
私は、一民間企業である㈱日立金属安来製作所が、日本の誇るべき日本刀文化・芸術を支えるその志に感銘しました。
足立美術館の足立全康さん、そして、㈱日立金属安来製作所、偉いと思います。
経済のグローバル化と、Information Technologyの人間社会へのますますの浸透により、日本も世界の例にもれず、社会における格差が拡大しています。物質的な豊かさでなく、心の豊かさを感じられる場を提供してくれるお金持ちや会社がどんどん出てきてくれると、現代の索漠とした人の心にも潤いがもたらされる、その一助になるのではないか、と思いました。現在の文化財は過去の富の偏在の産物とも言い得、そこに矛盾を感じはしますが、これが事実のようです。現代の厳しい生存競争の勝者も、人の未来のため、これまでの文化財の保存、そしてこれからの文化創造者への支援に、その富を使ってほしいと思いました。1987年から89年の間、ニューヨークに滞在していましたが、その間、大富豪や世界的大企業の資金援助で運営されている美術館などの文化施設を巡り、あの競争社会そのものの索漠としたニューヨーク生活で、心を癒されたことを思い出します。
たたら吹き伝承讃歌
たたら吹き:古代からの製鉄法
玉鋼 :たまはがね
魂をこめ神やどる日本刀
智慧手間の凝縮強き日本刀
たたら吹きでしかつくれぬ玉鋼
玉鋼なければできぬ日本刀
たたら吹き残るは世界で安来のみ
機械化の未だにできぬたたら吹き
古代から技引き継がれたたら吹き
たたら吹きの保存努力に敬服す
㈱日立金属安来製作所
のどけきや山陰山陽列車旅
山陰を後に夕暮れ初夏の旅
山陰より代田にのびる夕日かな
帰路の車窓(岡山―東京間)
和鋼博物館で太古と今の日本の文化と人に思いを巡らし、いよいよ山陰ともお別れの時が来ました。
安木発13:17 特急やくも18号・岡山行 15:39岡山着
岡山発16:23 ひかり478号・東京行 20:40東京着
七十路の私はジパング割引ですので3時間半の「のぞみ」利用が不可。ひかりでは4時間半ですが、急ぐ旅でないので苦にもなりません。新幹線は、車窓の景色はせわしないのですが、車体の揺れは特急より少なく、快適です。ビールを飲みつつ、旅を振り返り、句作に時を過ごしながら東京着。ちなみに、この日東京は雨が降っていましたが、私が南砂町駅からタクシーに乗った時は上がっていました、と運転手さんが言われていました。天に感謝です。
これで、北陸・山陰紀行は終わりです。
次は、湯西川温泉・平家の里紀行にとりかかろうかな、と思っています。