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思い出に残る衝撃のニュース2件

2022年03月28日 14時01分46秒 | 自分史

  衝撃のニュース


過激派の安保闘争

 私が裁判所に入った昭和45年当時は、70年安保闘争の最中で、過激派がヘルメット、覆面、角材、石塊で武装した活動家が安保阻止を掲げて激しい抵抗運動を繰り広げていた。過激派は、学生運動への介入を強め、全国の大学で、ストライキやバリケードによる封鎖が横行して、大学は正常な授業ができなかった。

裁判所でも、過激派関連事件があり、厳重な警戒の下に裁判が行われていたのが思い出される。

 ※ 安保闘争とは、日米安全保障条約の改定に反対して取り組まれた、社会、共産などの労組が中心

  の全国的社会運動である。





あさま山荘事件(連合赤軍)

 昭和47年2月19日に、連合赤軍メンバー5人が山荘の管理人の妻を人質に取って立てこもった。警視庁機動隊、長野県警が人質作戦を行うも難航して、死者3名、重軽傷者27を出した。翌日山荘に部隊が強硬突入して人質を無事救出し、犯人5名を逮捕した。

 連合赤軍と救出部隊との銃撃戦、鉄球での山荘破壊の衝撃的な映像がテレビで生中継された。私は裁判所で仕事中であったが、職員の多くは宿直室のテレビ放映を見ていた。

 視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分の民法、NHK合わせた視聴率89.7%に達した。


 ※ 連合赤軍とは、前身が日本共産党左派、共産主義者同盟連合派で、連続銀行強盗や銃
  砲店襲撃など、凶暴な犯行を繰り返し、資金や銃・弾薬を入手していた。






日本航空機墜落事故

 昭和60年8月12日、東京から大阪へ向かう日本航空123便ジャンボ機が群馬県多野郡上野村の山中に墜落した航空機事故である。乗客乗員524人のうち死者は520人、生存者はたったの4人であった。当時の単独機の航空事故の死亡者数としては世界最多であった。
 事故原因は、伊丹空港の「しりもち事故」の後、ボーイングによる圧力隔壁の破損が推定されている。
 当時、私は父親が6月に亡くなり、初盆で大分県臼杵市に帰省している最中であった。テレビでジャンボ機がダッチロールを繰り返していて、御巣鷹山のに墜落したと聞いた。その後、ジャンボ機の墜落した残骸の状況、わずかに生き残ったスチュワーデスをヘリコプターで救助している状況などテレビを食い入るように見ていた。
 事故後には、亡くなった人の遺書メモ、機内のカメラ映像などが出てきて、その悲惨さに驚き悲しんだ。
 犠牲者の中には、「上を向いて歩こう」の歌手坂本九さん(43歳没)がいた。坂本九さんはいつも全日空を使っていたが、お盆時期で満席のためにやむなく日本航空を使い、運悪く事故にあった。


 



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