生活を共にしていた家族を初めて亡くしたことで
改めて人生とは何なのかな・・・と考える事が多くなった。
父は長年働いてリタイア後10年もしないで他界した。
きっと長年働く中にはいろいろと悩むことや
いっそ仕事をやめてしまいたい瞬間もあったことだろう。
それでも勤めあげたのは家族の存在も支えになっていたと思う。
でも子供、つまり私が父の理想通りに育ったとは思えないし
わがままも言う。
家族が精神的な支えになれているときもあれば
がっかりさせることもあっただろう。
色々なことが思うようになろうとなるまいと
ずっとその道を続けていた父を尊敬している。
リタイア後の生活をみていると
父がそれを楽しめていたのか・・と心配していた。
「毎日が日曜日」などと言っているわりには
あまり外出をしない父をみていて
多分あまり楽しめていないのだろうと私は思っていた。
派手な趣味はなかったが、ゴルフを楽しんでいた父。
それから園芸や写真など。
実際はどうだったのか、もう知るよしもない。
でも、そうだったのか・・・と思ったことがある。
いつもリビングの端っこに設置されたパソコンに
向かっていた父。
なんであんな隅っこにずっといるんだろう・・・と
私も、そして母も思っていた。
父が逝ってしまってから、その場所に座ってパソコンをみていてわかった。
そこからは、母や私の様子が見え、テレビの音も聞こえ、庭も見える。
とても都合よく、居心地のいい、安心できる場所だった。
そうだったんだね、いろんなことをあの場所で感じとっていたんだね。
そしてパソコンの中にあるファイルをみると
庭に咲く花の数多くの写真がきちんと整理されてあった。
写真が好きなのは昔からである。
当然花の写真が入っていることは予想していたが
こんなに庭の花で楽しんでいたとは思わなかった。
楽しんでいる様子が伝わってきて少し私はホッとした。
園芸は父が仕事をしているころからコツコツと続けていたもの。
それをリタイア後、それまでよりも楽しんで続けていられたのなら
私は嬉しい。
そしてもう一つ気付けたことは
家族の気配を感じながら過ごすことで得られる安心感の大切さ。
父と母は会話の数は多くなかっただろうが、それでも
「気配」のある、なしはそれぞれの心の持ち方に大きな違いがあったと思う。
今、母がどこか物足りなさを感じている様子をみていればわかることだ。
父がいつもいた場所から感じとれる家族の気配もきっと
父の精神状態を安定させていたのだろう。
この数年、自分が一人で暮らすようになって
それはまさに自由なのだが、特に目的のない自由というものは
案外面倒なもので・・・
安心できる人の気配がするということが大切だと再認識。
これはまた私には難しいハードルが一個増えたような気にさせられる。
私は自分の家族というものをこれから作る事が出来るのだろうか?
気配だけで安心させてあげられて、自分も安心できるような家族が
作れるのだろうか?
正直に言って想像がつかない。
私が子供として疑いようもない安心感の中で育ったのと同じような
幸せを次の世代に与えてあげることができるのか?
働くことと、楽しむことのバランスをどうしていくのか・・・
そして、ひとりぼっちになったとき、それでも強くいられるのか・・・
もともと寂しがり屋の甘えん坊が精いっぱい強がっているうちに
強がるのが習慣づいてしまった自分。
素直に考えたらひとりぼっちになるのは嫌だな。
それならどうしていったらいいのか・・・
そんなことを今、漠然と考える日々である。
改めて人生とは何なのかな・・・と考える事が多くなった。
父は長年働いてリタイア後10年もしないで他界した。
きっと長年働く中にはいろいろと悩むことや
いっそ仕事をやめてしまいたい瞬間もあったことだろう。
それでも勤めあげたのは家族の存在も支えになっていたと思う。
でも子供、つまり私が父の理想通りに育ったとは思えないし
わがままも言う。
家族が精神的な支えになれているときもあれば
がっかりさせることもあっただろう。
色々なことが思うようになろうとなるまいと
ずっとその道を続けていた父を尊敬している。
リタイア後の生活をみていると
父がそれを楽しめていたのか・・と心配していた。
「毎日が日曜日」などと言っているわりには
あまり外出をしない父をみていて
多分あまり楽しめていないのだろうと私は思っていた。
派手な趣味はなかったが、ゴルフを楽しんでいた父。
それから園芸や写真など。
実際はどうだったのか、もう知るよしもない。
でも、そうだったのか・・・と思ったことがある。
いつもリビングの端っこに設置されたパソコンに
向かっていた父。
なんであんな隅っこにずっといるんだろう・・・と
私も、そして母も思っていた。
父が逝ってしまってから、その場所に座ってパソコンをみていてわかった。
そこからは、母や私の様子が見え、テレビの音も聞こえ、庭も見える。
とても都合よく、居心地のいい、安心できる場所だった。
そうだったんだね、いろんなことをあの場所で感じとっていたんだね。
そしてパソコンの中にあるファイルをみると
庭に咲く花の数多くの写真がきちんと整理されてあった。
写真が好きなのは昔からである。
当然花の写真が入っていることは予想していたが
こんなに庭の花で楽しんでいたとは思わなかった。
楽しんでいる様子が伝わってきて少し私はホッとした。
園芸は父が仕事をしているころからコツコツと続けていたもの。
それをリタイア後、それまでよりも楽しんで続けていられたのなら
私は嬉しい。
そしてもう一つ気付けたことは
家族の気配を感じながら過ごすことで得られる安心感の大切さ。
父と母は会話の数は多くなかっただろうが、それでも
「気配」のある、なしはそれぞれの心の持ち方に大きな違いがあったと思う。
今、母がどこか物足りなさを感じている様子をみていればわかることだ。
父がいつもいた場所から感じとれる家族の気配もきっと
父の精神状態を安定させていたのだろう。
この数年、自分が一人で暮らすようになって
それはまさに自由なのだが、特に目的のない自由というものは
案外面倒なもので・・・
安心できる人の気配がするということが大切だと再認識。
これはまた私には難しいハードルが一個増えたような気にさせられる。
私は自分の家族というものをこれから作る事が出来るのだろうか?
気配だけで安心させてあげられて、自分も安心できるような家族が
作れるのだろうか?
正直に言って想像がつかない。
私が子供として疑いようもない安心感の中で育ったのと同じような
幸せを次の世代に与えてあげることができるのか?
働くことと、楽しむことのバランスをどうしていくのか・・・
そして、ひとりぼっちになったとき、それでも強くいられるのか・・・
もともと寂しがり屋の甘えん坊が精いっぱい強がっているうちに
強がるのが習慣づいてしまった自分。
素直に考えたらひとりぼっちになるのは嫌だな。
それならどうしていったらいいのか・・・
そんなことを今、漠然と考える日々である。