とにかくやってみよう!!

日々の発見や気づきなど書いてます。
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人生について考える

2010年06月20日 | Weblog
生活を共にしていた家族を初めて亡くしたことで
改めて人生とは何なのかな・・・と考える事が多くなった。

父は長年働いてリタイア後10年もしないで他界した。

きっと長年働く中にはいろいろと悩むことや
いっそ仕事をやめてしまいたい瞬間もあったことだろう。

それでも勤めあげたのは家族の存在も支えになっていたと思う。

でも子供、つまり私が父の理想通りに育ったとは思えないし
わがままも言う。
家族が精神的な支えになれているときもあれば
がっかりさせることもあっただろう。

色々なことが思うようになろうとなるまいと
ずっとその道を続けていた父を尊敬している。

リタイア後の生活をみていると
父がそれを楽しめていたのか・・と心配していた。
「毎日が日曜日」などと言っているわりには
あまり外出をしない父をみていて
多分あまり楽しめていないのだろうと私は思っていた。

派手な趣味はなかったが、ゴルフを楽しんでいた父。
それから園芸や写真など。

実際はどうだったのか、もう知るよしもない。

でも、そうだったのか・・・と思ったことがある。

いつもリビングの端っこに設置されたパソコンに
向かっていた父。
なんであんな隅っこにずっといるんだろう・・・と
私も、そして母も思っていた。
父が逝ってしまってから、その場所に座ってパソコンをみていてわかった。
そこからは、母や私の様子が見え、テレビの音も聞こえ、庭も見える。
とても都合よく、居心地のいい、安心できる場所だった。
そうだったんだね、いろんなことをあの場所で感じとっていたんだね。

そしてパソコンの中にあるファイルをみると
庭に咲く花の数多くの写真がきちんと整理されてあった。
写真が好きなのは昔からである。
当然花の写真が入っていることは予想していたが
こんなに庭の花で楽しんでいたとは思わなかった。
楽しんでいる様子が伝わってきて少し私はホッとした。

園芸は父が仕事をしているころからコツコツと続けていたもの。
それをリタイア後、それまでよりも楽しんで続けていられたのなら
私は嬉しい。

そしてもう一つ気付けたことは
家族の気配を感じながら過ごすことで得られる安心感の大切さ。

父と母は会話の数は多くなかっただろうが、それでも
「気配」のある、なしはそれぞれの心の持ち方に大きな違いがあったと思う。
今、母がどこか物足りなさを感じている様子をみていればわかることだ。
父がいつもいた場所から感じとれる家族の気配もきっと
父の精神状態を安定させていたのだろう。
この数年、自分が一人で暮らすようになって
それはまさに自由なのだが、特に目的のない自由というものは
案外面倒なもので・・・
安心できる人の気配がするということが大切だと再認識。

これはまた私には難しいハードルが一個増えたような気にさせられる。

私は自分の家族というものをこれから作る事が出来るのだろうか?
気配だけで安心させてあげられて、自分も安心できるような家族が
作れるのだろうか?
正直に言って想像がつかない。
私が子供として疑いようもない安心感の中で育ったのと同じような
幸せを次の世代に与えてあげることができるのか?
働くことと、楽しむことのバランスをどうしていくのか・・・
そして、ひとりぼっちになったとき、それでも強くいられるのか・・・
もともと寂しがり屋の甘えん坊が精いっぱい強がっているうちに
強がるのが習慣づいてしまった自分。
素直に考えたらひとりぼっちになるのは嫌だな。
それならどうしていったらいいのか・・・

そんなことを今、漠然と考える日々である。




旅立った父へ

2010年06月09日 | Weblog
お父さん、思ったより早い別れでした。
まだ5年、いや10年は一緒にいられると思っていたのに。
きっとお父さんもそのつもりだったと思う。

病が分かった時のお父さんの言葉はそれを意味していたと思う。
「晴天の霹靂」
本当にそうだよね。

お父さんの咳は年齢相応に呼吸機能が落ちてきたものだと
思っていたけれど、5月9日、あの日の咳はおかしかったね。

これはまずいと思った。
でも12日の検査でわかることは間質性肺炎の悪化だと思っていたよ。
お父さんもそうだよね。いよいよ肺炎が悪化したと思ったよね。
でも意外な病名だった。
まさか肺癌だなんて。

後になって考えれば、お父さんも若い頃に喫煙歴があった。
だから肺癌にならないつもりだったとしても
そんなの統計から考えたら勝手な思い込みだったのかもしれないね。

でも何十年も人一倍健康に気をつけてきたのに、
それに1年前の健康診断では異常はなかったのに、
それなのにこんなに早く命が奪われることがあるなんて。

敵がおよそ見当ついてからもお父さんは冷静を装っていた。
きっとお母さんや私のために、なるべく平気な顔をしていた。
でも、咳の症状が残念な現実を思い出させる。

それでも、久しぶりに実家にとどまって過ごした
2週間は私にとって貴重な時間でした。
お父さんやお母さんにとってもそうでしょう。
きっと今、私がこうやって記録しておこうとするのも
その時間をしっかり記憶に留めておきたいからなのでしょう。
普通にご飯を一緒に食べて会話する。
「いってきます」「いってらっしゃい」
「ただいま」「お帰り」を言う。
その日のニュースについて家族で会話する。
その普通のことが貴重だった。
気付いたかな?
私が最初はいつものように「こんばんわ」といってたのを
昔のように「ただいま」と言いかえてたこと。
お父さんの「いらっしゃい」ってのも好きだったけど
何となく昔のようにしたくなったんだ。
お父さんも「お帰り」って言ってくれたから気づいてたよね。

きっとお父さんの最後の不本意、心残りは
覚悟をして入院したのではなく
検査日にそのまま入院になってしまったことだね。
なんにも家の後のこと準備もできずに入院になってしまったから。
必死に、本当に必死に家に帰るため、何が必要なのか
病床で考えているお父さんを目の当たりにした。
あの真剣な様子、印象的でした。
入院中困らないように色々持っていこうかと思ったのに
お父さんはいらないと言った。
それですぐにわかったよ。
長くいるつもりはないし、まず家に帰る事を目標にしてるから
病室を居心地良くする必要なんてないという意味だったんだよね。
私はそう受け取った。
長いことお父さんの娘やってるから全部説明されなくても
わかるよ。

お父さんには内緒にしていたけれど
私は検査後帰れなかったことは相当まずいことだと思っていた。
それでも、苦しいのに、息をするだけでも苦しいのに
食いしん坊でもないお父さんが
一生懸命ご飯を食べている姿を見たとき、
私が勝手にあきらめてはいけないと思ったんだ。

5月29日
お母さんと私にドクターから宣告があったんだよ。
詳しい検査の結果、小細胞肺癌と確定した。
しかも肺炎を併発している。1~2週間かもしれない。
私はこれでも医療に携わっているから
1年未満であれだけ大きくなった腫瘍ということだけで
手ごわすぎる相手、つまり小細胞肺癌だろうとは思っていたが
あたってしまった。
肺炎の併発、それが意味することは癌以外の部分の呼吸機能も
おちて危険な状態になるということ。
そしてお父さんの場合にはそれが細菌性だか、
いわゆる間質性肺炎の悪化なのかわからなかったんだ。
それがこんなにも早い別れになった要因のひとつなんだよ。
できる限りドクターはお父さんに説明してくれたね。
こんなに詳しく告知するのか、と正直私は驚いた。
そんなときでもお父さんはやや動揺した姿は見せたけど
毅然としていた。あっぱれだったよ。

すべての話をきいて唯一の手段の化学療法をやってみることを決めたね。
効いてほしい、効いてほしい、そう思った。
現実は厳しかった。
効いて呼吸が少しでも楽になってほしかったけれど…

31日
出血。
携帯の留守電に「緊急事態…」と入っているのを聞いて
身が凍る思いがした。
急いで病院にいってお父さんに会えた時は本当にほっとした。
でもお父さんはあの日、私がこれまで見た中で一番あわてていた。
興奮して多言になっていたよ。
苦しいんだからしゃべらなくていいのに…
何度も何度も時計と酸素飽和度を見ていた…

6月1日
前日よりおちついたお父さんがいた。
良かった。つらそうだけど酸素飽和度もそこそこ。
少しおしゃべりもできた。
「あなたの仕事も大事なんだから」だって。
「あなたの体調はいいのか」だって。
大丈夫だよ、そんなのあとでどうにでもなるのに。
たわいもないこと、普通の会話がとてもうれしい日だった。
帰る時、手を振ってくれた。長めに長めにね。

2日
前日より寝ている時間が多い。
きっとつらくなってきていたんだね。
化学療法が効いてくるまで、よく寝て、なんとかこの調子で
眠って呼吸を安定させながらすごしてほしい。
私の願いはそれだけだった。
この日も手を振ってくれた。やっぱり長めにじっくり。
そして、それがお父さんの最期の姿になった。

3日
お父さんに大事だと言われた仕事。
だからこそ出勤したよ。
お母さんにお父さんの様子をメールしてくれるように
頼んでおいたの。
途中それをみたらやっぱり前日より状況が悪い。
無理か…
その日は仕事上でも大事な日だったから早退もしなかった。
終業後すぐに電話でお母さんに状況を聞いた。
「もしかしたら今夜あたりって先生が…」
奇跡は起きなかったか。

お母さんのこの日の判断はあとで考えれば的確だったよ。
お父さんが家に帰ってこれるように必死でその部屋を片付けた。
夜も遅いのに作業を続けるお母さんの真剣な姿を
きっと私は忘れることはないよ。
病院から連絡が入る前に片づけることを二人で決めた。
できるだけのことをして、お父さんを迎えにられるようにして床についた。
それから50分後…
電話が鳴ってる。
呼吸状態が悪化してきたとの連絡。
急きょ病院に向かう。
50分しか寝ていないのに、私もお母さんもあの日は
とてもよく寝たかような錯覚があった。不思議な感覚だった。
なんとか間に合いたい。待っててねお父さん…

慌てて事故を起こさないようにお母さんは必死だったよ。
あんなお母さんも初めて見た。
大丈夫だよ、大丈夫だよ。

着いた。急いだ。
でも…
看護師さんからほんのちょっと前に呼吸および心臓も停止したと…
家族が来るからといっていたんだけど…

そこに寝ているお父さんを見て悲しかったのは当然だね。
苦しい思いをしていたから楽になって良かったねと思ったり
やっぱり待っていてほしかったと思ったり。
お父さんが動かないということが信じられなくて…
あんなときは一言で言えるような感情ではなかったよ。

お父さんわざとだったの?
あんなに見ていた腕時計、お父さんが家に帰ってから
針がとまったんだよ。しっかり4日を指しながらね。
こんなのありかね?
まるで家に帰ったことを確かめて満足したかのような。
止まっている時計を見つけた時、驚いて、せつなくて、涙があふれたよ。
本当に魂が抜けたのは、その時間なんじゃないかと思ってしまう。

私のこれまでの人生には困った時にいつでもお父さんがいた。
「親ができることは教育だけだ」と言って
私を猫っ可愛がりするわけでもなく、育てる、見守ることで
愛情を表現してくれたよね。
一時は見守ってくれてることの本当の意味が分からずに
全く認めてもらえないんだと勘違いした時期もあったけれど
今はちゃんと分かっているよ。
本当はもっと、もっと、教えてもらいたいことがあったよ。
まだ時間があると思っていたのに。
でももう直接会話できないね。これが現実だ。
お坊さんによると仏様になったらみんなのそばにいるんだって。
そうなの?私のそばにいる?
きっとそうなんだよね。
だからこれからも相談するよ。
そして自分なりに解決策を導けるように頑張るから応援してね。

これまで絶対的な安心感と愛情をありがとう。
お父さんから受けた数々の教えを私のこれからの人生の随所に
刻み続けながらすすんでいこうと思います。
最期までかっこつけて、弱みを見せないで逝ってしまったお父さんに
いつか、いつか笑いながら再会できるように
今の自分に課せられていることにひとつひとつ対峙します。

大好きな、私の最大の理解者であるお父さん、お疲れさまでした。そしてありがとう。