![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/7a/66add4ecc293a584919af9dcd566ad89.jpg)
★⇊☆ひろし爺1840のDB広場=私の住む大野浦の名所旧跡史跡めぐり=
(▼をポチしてフルウインドウで御覧下さいネ)
★⇊・お迎え地蔵!
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★⇊・千人塚!(大野の大頭神社入り口の左手に有ります)
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★⇊☆三枝弘のYoutube動画
=♪海小田島の梅原漁港から見る安芸の宮島と雲! =
★⇊・古墳 吉田松陰 越しかけの岩~の眺め!
「親思う・心に残る親心 今日の訪れ・何と聞くらむ」
の1首を残して江戸に護送される途中、吉田松陰は西国街道で当時
最も難所とされた八坂峠のこの岩に腰をかけて、
遥か故郷の島である大島を望みながら父母の恩愛に感激をし、
「この場こそ、三県一望の地である」と
故郷に別れを告げた場所であると言われています。
現在では、雑木が覆っているため吉田松陰が腰掛けた「腰掛けの岩」からは
眺めは良くありませんが、ここから少し上に登ると絶景が広がり、
松陰が眺めた風景を見渡すことが出来ます。⇊
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★⇊・任助親王の墓(にんにょしんのうのはか)!
JR宮島口駅の西側にある踏切を、国道2号線側から渡ってすぐのところに任助親王御墓があります。
地元では「お室さん」と親しみ呼んでいます。
お墓の正面には「厳島御室」、右面に「天正十二年甲申歳十一月二十九日」(大正12年 = 1584年)、五輪塔の中央水大には梵字で「阿」の字を刻んであり、大野町に現存する金石文(きんせきぶん:金属や石などに記された文字資料)では、一番古いものとなります。
任助親王は伏見宮貞敦親王の第四子で、後々、奈良天皇の御猶子となりました。
天文8年(1539年)御年15で出家し、京都仁和寺門跡二十世をつがれました。
晩年には九州地方御法流再興を思召し立たせられ、はるばる宮島まで御下りになって大聖院にお立ち寄りになりましたが、同寺良弁の遺弟良政がまだ幼く、法務に堪えないので示論教授の為にしばらく御止まりになりました。
当時の人たちは、厳島御室様といって敬慕しておりましたが、
突然病に伏せられ、座禅のままお隠れになったと伝えられています。
御年60歳でした。親王は生前、対岸の赤崎の風景を愛され、いまの御室や間の麓に桜の木を御手植えになり、
墓所と定められたと言い伝えています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/7c/b2564f6c2b4a3ad52e837ffd4cabc10b.jpg)
★再編集DBー廿日市大野浦の史跡旧跡めぐりⅡ ー
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