〔巻一・九〕
紀の国の山越えて行け吾が背子がい立たせりけむ厳橿がもと 額田王
(きのくにのやまこえてゆけわがせこがいたたせりけむいつかしがもと)
原文 : 莫囂円隣之 大相七兄爪謁気、吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
原文は漢文にみえるが万葉仮名、文法的には現代の日本語とほぼ同じ。万葉仮名を遣ったために読み方は乱れてしまって元歌の読み方を再現するのは至難の業のようです。しかも、漢字は表意文字で幾とおりもの意味(読み)がある、そして表音文字として遣ったので余計に紛らわしい。表音文字に意味はなく読み方は一つでなければややこしい。平仮名が確立しだしたのは万葉集の300年後ぐらい。それゆえ万葉集の元歌の読み方に現代人が迷うのは当然と言えそうで、読み方が変ってしまえば歌の意味も変って当然と云えそうです。ともあれ現代に伝わる文書から元歌の意味や読みを想像していくしかない。
それにしても斎藤茂吉の知識は非凡であり、一つの文字の読みを確立するためにも幾つもの過去の文献を示すから信頼性は抜群に高いというか彼の読みを間違いと出来ないけれども、だからといって彼の示した文献を尊重した万葉集の詠み手であってこそ茂吉の推論どおりと言えるのであって、そんなことに意識が働かず全く別の観点から詠んだ歌ではないと完璧な証明ができなければ‥いやいや、詠み手には詠み手の詠み方があって好いのではなかろうかと‥私が言いたいのは只それだけのことなのですけれど。貶めるのは駄目だが、いたずらに美化するのでなく淡々と読んだらどうなのかな‥と私は言ってるだけです。
こう考えてきて想うのは、斎藤茂吉の試みのように歴史の検証みたいな万葉集の読み方があって好いと思うし、詩は詠み手を離れて一人歩きするのだから背景など考えずに詩としてだけを味わっても好いのでなかろうかとも思うことになる。斎藤茂吉は歴史に則って評価している節があるように想えてそれは過ちではないけれど、しかしそれなら歴史的検証を抜きにした歌に価値は観られないのだろうか?社会科・歴史の授業ではなく、和歌・詩として味わう目的を見失っては何かオカシイのではなかろうか‥と私は確たる根拠はないけれど不安な気分になってしまうのです。私は学者でないし、斎藤茂吉は学者であり詩人であるからその違い・溝はどうにも埋まらないかなあ。
有季定型歴史かな遣いの俳句を詠もうと試みてきた私の想いとして、古典を無視しては限界を越えられない俳句のように想えてならず、それにしても古典・古文といっても百年単位で検証するとどんどん変遷しているのに厭でも気づかされる訳で、時代に対応できない古典の言葉を遣った俳句にどんな意味があるかと考えあぐねてしまったりしているところ。今私が想っているのは「現代文語」を豊かに育てられないものか‥なんだけど、私的に夏目漱石は面白くない、森鴎外は面白いけど疲れる、寺田寅彦は読みやすく面白かった。思うに文語体は助詞や副詞の変化に頼るだけでなく、豊かなボキャブラリーが必要条件になるだろうなあ。いやいや、横道に逸れていってる。
(付け足しですけど‥麗しい心情を詠った歌)
【意】:神の森に私も今立っていて嘗てあなたがお話になった所だよ
紀きの国くにの山やま越こえて行ゆけ吾わが背子せこがい立たたせりけむ厳橿いつかしがもと 〔巻一・九〕 額田王
紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之ワガセコガ、射立為兼イタタセリケム、五可新何本イツカシガモト」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂いっていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿いつかしが本もと」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿いつかしは厳おごそかな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗かつて私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以二倭姫命一為二御杖一貢二奉於天照大神一是以倭姫命以二天照大神ヲ一鎮二坐磯城ノ厳橿之本一とあり、古事記雄略巻に、美母呂能ミモロノ、伊都加斯賀母登イツカシガモト、加斯賀母登カシガモト、由由斯伎加母ユユシキカモ、加志波良袁登売カシハラヲトメ、云々とある如く、神聖なる場面と関聯し、橿原かしはらの畝火うねびの山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。考頭注に、「このかしは神の坐所の斎木ゆきなれば」云々。古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。
さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、古兄※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)湯気コエテユケだとした。考に云、「こはまづ神武天皇紀に依よるに、今の大和国を内つ国といひつ。さて其内つ国を、こゝに囂サヤギなき国と書たり。同紀に、雖辺土未清余妖尚梗而トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ、中洲之地無風塵ウチツクニハヤスラケシてふと同意なるにて知しりぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊国を差さす也。然れば莫囂国隣之の五字は、紀乃久爾乃キノクニノと訓よむべし。又右の紀に、辺土と中州を対むかへ云いひしに依ては、此五字を外トつ国のとも訓べし。然れども云々の隣と書しからは、遠き国は本よりいはず、近きをいふなる中に、一国をさゝでは此哥このうたにかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、猶なほ上の訓を取るべし」とあり、なお真淵は、「こは荷田大人かだのうしのひめ哥うた也。さて此哥の初句と、斉明天皇紀の童謡ワザウタとをば、はやき世よりよく訓ヨム人なければとて、彼童謡をば己に、此哥をばそのいろと荷田ノ信名のぶなノ宿禰すくねに伝へられき。其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家に問とふに、全く古大人の訓に均ひとしといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隠しおかば、荷田大人の功も徒いたづらに成なりなんと、我友皆いへればしるしつ」という感慨を漏らしている。書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「傍国かたくにの可怜国うましくになり」と云った如くに、大和に隣った国だから、紀の国を考えたのであっただろうか。
古義では、「三室みもろの大相土見乍湯家ヤマミツツユケ吾が背子がい立たしけむ厳橿が本もと」と訓み、奠器円レ隣メグラスでミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登ミモロノイツカシガモトを参考とした。そして真淵説を、「紀ノ国の山を超て何処イヅクに行とすべけむや、無用説イタヅラゴトといふべし」と評したが、併しかしこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田久老ひさおいが信濃漫録しなのまんろくで云ったその模倣である。真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。この訓は何処か弛たるんでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。「吾が背子」は、或は大海人皇子おおあまのみこ(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。