〔巻一・七〕
秋の野のみ草苅り葺き宿れりし
兎道の宮処の仮廬し思ほゆ
額田王
(あきのぬのみくさかりふきやどれりしうじのみやこのかりいほしおもほゆ)
【意】嘗つて天皇の行幸に御伴して、山城の宇治で、秋の野のみ草を刈って葺いた行宮に宿ったときの興深かったさまが想い出される。
み草 : 薄(ススキ)や萱(カヤ)
兎道 : 宇治
宮処 : みやどころ。①神の鎮座する所。神社のある所。 ②皇居のある所。宮居。
仮廬 : 仮庵。かりほ、かりお、かりいお。狩りに作った庵。旅先などの仮の宿り
(漢字の読みは時代で変化し、詠み・読みは作者・選者の意図的とも思う)
行幸にお供したときの楽しかった出来事を懐かしんだ、頃は秋、泊ったのは宇治の萱葺きの庵、そのようなことが印象深く想いだされるということを一首に詠んだ。
どのくらいの規模の庵なのか、何人くらいのお供を連れた行幸だったのか、そういったことはこの歌だけでは分らないが行幸の雰囲気は楽しいものだったようです。
大和と近江との交通路に当っていたから、行幸などの時に仮の御旅宿を宇治に設けたもうたことがあったのであろう。その時額田王は供奉し、後に当時を追懐して詠んだものと想像していい。額田王は、額田姫王と書紀にあるのと同人だとすると、額田王は鏡王の女で、鏡女王の妹であったようだ。初め大海人皇子と御婚して十市皇女を生み、ついで天智天皇に寵せられ近江京に行っていた。「かりいほ」は、原文「仮五百」であるが真淵の考では、カリホと訓んだ。
この歌は、独詠的の追懐であるか、或は対者にむかってこういうことを云ったものか不明だが、単純な独詠ではないようである。意味の内容がただこれだけで取りたてていうべき曲が無いが、単純素朴のうちに浮んで来る写象は鮮明で、且つその声調は清潔である。また単純な独詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から伝わって来るのをおぼえるのである。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった。
歌の左注に、山上憶良の類聚歌林に、一書によれば、戊申年(つちのえさるのとし)、比良宮に行幸の時の御製云々とある。この戊申の歳を大化四年とすれば、孝徳天皇の御製ということになるが、今は額田王の歌として味うのである。題詞等につき、万葉の編輯当時既に異伝があったこと斯くの如くである。