daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

熟田津に船乗りせむと月待てば

2014年10月31日 | 萬世の歌


〔巻一・八〕
熟田津に船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな

額田王

(にぎたづにふなのりせむとつきまてばしほもかなひぬいまはこぎいでな)


【意】伊豫の熟田津で、御船が進発しようと、月を待っていると(いよいよ月も明月となり)潮も満ちて船出するのに都合好くなった。さあ榜ぎ出そう、というのである。


月待てば : 月明りが頼りの夜の船出なら明月(名月)がイチバンです。 
潮もかなひぬ : 潮の流れに乗って出るのですね。
今は :潮流に乗るのはタイミング‥今こそその時ですね。
 : 終助詞、この場合は「‥しよう」となる。

このお歌に難しい言葉は含まれてなく、そのままで理解できます。
近畿から九州へは船で瀬戸内海を抜けるのが速かったが、そのために四国に度々寄ったようで、当時の人々に四国の港は今思うよりも身近な存在だったのかな。

船乗り : 「舟遊び」も考えたが池でなく海で舟遊びは大掛かり過ぎます。九州までの舟遊びはちょっと凄すぎ。
歴史を勘案して戦に出るときの歌だったと考えるのが自然に想えて、これは私も斎藤茂吉の説に相乗りするところ。

月待てば : 潮流が頼りの船出なら月はどの辺りが都合好いだろうか? 瀬戸内海は黒潮の影響は少ないらしいから無視して好いだろ? 月の出の刻なら、愛媛県の潮流は東の月に引張られるから九州と逆方向だ。それなら真上に来たときは満潮で潮流はほとんど無かろう? 月が真上から西に傾きだしたら潮流は九州へ向いていて都合が好い。じっさいは数時間の誤差は観なければならないだろうけども。
暦的にみれば、この歌を詠んだ日付けは大潮の満潮というから満月と潮流がピッタリ一致したらしい。すなわち、この歌は作られたものでなく正に実景を詠ったもので、願ったり叶ったりと評している。

結句の原文「許芸乞菜」を「コギコナ」と読んできたが江戸時代末の著「万葉集燈」で「コギイデナ」と読むことが定まったという。もちろん「乞」に「イデ」の読みはあったようである。それにしても作者は「コギコナ」「コギイデナ」のどちらで詠んだのだろうか? 想像するしかないのであれば「読み手」の権限で好きに読んでいいが、作者に頼まれもしないのに「作者はコギイデナで納得する」とする如き極めつけは如何なものだろうか‥権威が添削してしまっては最早作者は作者でなくなる。元歌を額田王が詠んだか、天皇が詠んだかは知らぬが、「コギコナ」では駄目駄目の歌だから訂正してやったことになり、これは如何理解したら良いのだろうか。

これに似た事例として宮澤賢治はオッチョコチョイで「ヒドリ」を訂正して「ヒデリ」とした件を想い出す。また、「太宰治は間違って待宵草を月見草とした」という流言を想い出すが太宰治は月見草を月見草と詠んだと私は言うしかない。権威が間違いを押しつけるのは当然困るが、「コギコナ」と読んだ背景を考慮に入れずに勝手に添削する傲慢な姿勢に私は驕りが感じられてならない。もちろん私は「コギイデナ」の読みを否定するものでなく、額田王や天皇より斎藤茂吉が優れているという主張を肯定も否定もするものでない。 時の流れは真実を見えにくくするだけに私たちはドコまでも謙虚でありたいものです。ともあれ、斎藤茂吉の知識を借りずしては私は到底読めない万葉集にちがいない。



斉明天皇が(斉明天皇七年正月)新羅しらぎを討ちたまわんとして、九州に行幸せられた途中、暫時伊豫の熟田津にぎたづに御滞在になった(熟田津石湯いわゆの行宮)。其時お伴をした額田王の詠んだ歌である。熟田津という港は現在何処かというに、松山市に近い三津浜だろうという説が有力であったが、今はもっと道後温泉に近い山寄りの地(御幸寺山附近)だろうということになっている。即ち現在はもはや海では無い。
 一首の意は、伊豫の熟田津で、御船が進発しようと、月を待っていると、いよいよ月も明月となり、潮も満ちて船出するのに都合好くなった。さあ榜ぎ出そう、というのである。
「船乗り」は此処ではフナノリという名詞に使って居り、人麿の歌にも、「船乗りすらむをとめらが」(巻一・四〇)があり、また、「播磨国より船乗して」(遣唐使時奉幣祝詞)という用例がある。また、「月待てば」は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は満潮を待つのであろう。月と潮汐とには関係があって、日本近海では大体月が東天に上るころ潮が満始るから、この歌で月を待つというのはやがて満潮を待つということになる、また書紀の、「庚戌泊二于伊豫熟田津石湯行宮一」とある庚戌かのえいぬは十四日に当る。三津浜では現在陰暦の十四日頃は月の上る午後七、八時頃八合満となり午後九時前後に満潮となるから、此歌は恰あたかも大潮の満潮に当ったこととなる。すなわち当夜は月明であっただろう。月が満月でほがらかに潮も満潮でゆたかに、一首の声調大きくゆらいで、古今に稀なる秀歌として現出した。そして五句とも句割がなくて整調し、句と句との続けに、「に」、「と」、「ば」、「ぬ」等の助詞が極めて自然に使われているのに、「船乗せむと」、「榜ぎいでな」という具合に流動の節奏を以て緊しめて、それが第二句と結句である点などをも注意すべきである。結句は八音に字を余し、「今は」というのも、なかなか強い語である。この結句は命令のような大きい語気であるが、縦たとい作者は女性であっても、集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的なひびきとしてこの表現があるのである。供奉応詔歌の真髄もおのずからここに存じていると看みればいい。
 結句の原文は、「許芸乞菜」で、旧訓コギコナであったが、代匠記初稿本で、「こぎ出なとよむべきか」という一訓を案じ、万葉集燈でコギイデナと定めるに至った。「乞」をイデと訓よむ例は、「乞我君イデアギミ」、「乞我駒イデワガコマ」などで、元来さあさあと促がす詞ことばであるのだが「出で」と同音だから借りたのである。一字の訓で一首の価値に大影響を及ぼすこと斯くの如くである。また初句の「熟田津に」の「に」は、「に於おいて」の意味だが、橘守部たちばなのもりべは、「に向って」の意味に解したけれどもそれは誤であった。斯かく一助詞の解釈の差で一首の意味が全く違ってしまうので、訓詁くんこの学の大切なことはこれを見ても分かる。
 なお、この歌は山上憶良の類聚歌林に拠よると、斉明天皇が舒明天皇の皇后であらせられた時一たび天皇と共に伊豫の湯に御いでになられ、それから斉明天皇の九年に二たび伊豫の湯に御いでになられて、往時を追懐遊ばされたとある。そうならば此歌は斉明天皇の御製であろうかと左注で云っている。若しそれが本当で、前に出た宇智野の歌の中皇命が斉明天皇のお若い時(舒明皇后)だとすると、この秀歌を理会するにも便利だとおもうが、此処では題どおりに額田王の歌として鑑賞したのであった。
 橘守部は、「熟田津に」を「に向って」と解し、「此歌は備前の大伯オホクより伊与の熟田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ」と云ったが、それは誤であった。併し、「に」に方嚮ほうこう(到着地)を示す用例は無いかというに、やはり用例はあるので、「粟島あはしまに漕ぎ渡らむと思へども明石あかしの門浪となみいまだ騒げり」(巻七・一二〇七)。この歌の「に」は方嚮を示している。


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