ここで雨ニモマケズの部分を抜書きしてみましょう
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
雨ニモマケズの詩は宮沢賢治の心境を詠ったとされる
それに私は反論するモノではないがそれだけだろうか?
上記に引用した部分は農民の姿そのものと思わないか?
自然災害に限らず全ての面で賢治は同苦する覚悟だろ?
農民の苦悩に思いを馳せ、共に悩むと決めた賢治だろ?
大概の自然災害ならば乗越える農民たちにちがいない
一軒だけの問題なら皆が助けることも出来る筈なんだ
では村の存亡に関わる大問題になったときはどうする?
単なる旱(ひでり)は何べんでも乗越えてきた農民だろ?
そのような追詰められた状況になった時どうするんだ?
景気がいい時は博打にウツツを抜かす法印もいたんだ
他所の不幸に援助してあげて太った親父もいただろう
これは他人ごとだなどと言ってられない吾が身の不幸
「雨ニモマケズ」を読むあなたには他人ごとだろうか
そのノンビリした他人ごと感覚では最早済まない状況
そのにっちもさっちもいかない状況になってしまった
あなたならどうする? 天を呪うか? 政治を呪うのか?
だれを呪っても仕方ないから農民は生きる算段をする
生きるのは正しいことだから、今は生きる算段が先だ
その最後の手段の日取りが来るのを待つ身だったかも?!
生きるのが正義でなければ日取りを待つのは悪事だよ
それほど究極の選択を迫られたってふうに私は考えた
農民たちが生きるのを認めるか認めないかの選択の時
農民たちが生きるのが正義なら選択肢も若干は広まる
生きるのを正義とみない人が多いのを私は知ってるが
賢治の思想は農民が生きるのを正義とするベクトルだ
その正義を堂々と叫ぶとき、日取りは善となる道理だ
賢治の友であれば私はその正義を叫ぶべきだと信じる
ファンは客であり、賢治の正義を叫ぶ義務を負わない
役者に涙し、悪役に怒り、賞罰の判決を下す客だもの!
私は客でなく役者でもなく賢治と同じ想いを語る詩人
こう想えない人は日取りの意味を曖昧に済ますだろう
ヒドリは「日取り」「日銭稼ぎ」どちらでも合うんだ
ただしそれは私の理解で賢治のヒドリに沿わしたのだ
どんな想いの日銭稼ぎか、その日がくるのも恐ろしい
そんなヒドリに推敲に推敲を重ねてもマダマダ足りぬ
そういった事のキーワードを入沢康夫氏の資料に観た
入沢氏もイーハトーブも私の観方とは違ったようだし
私の穿ちすぎでなければ彼らの観方が甘いことになり
彼らの観方が正しければ私の観方が考えすぎになるが、
いずれにしても口を閉ざして語らなければ勘ぐられる。
ところで今調べたところ、
入沢氏の件の原稿はイーハトーブで削除されている
入沢氏の「ヒデリ論」で正しいと言うなら残すべきだ
正しい論は残してこそ正義は堂々とまかり通るだろう
いやいや、削除は入沢氏を卑しめる振舞いでないのか?
ともあれ、賢治を粗忽者扱いした行為はどうなるのか?
(賢治は)「書き誤る傾向があった」と書いた事実は消えない。
ともあれ私なりに、
入沢氏の過去記事を探してここに載せたいとは思うが
見つかれば幸いだが‥事実は覆せないと知りたいもの。
次は明日の賢治忌を[ヒドリ]入りで詠んだものです
日取りくる闇に暮るれば賢治の忌 括絲子
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
雨ニモマケズの詩は宮沢賢治の心境を詠ったとされる
それに私は反論するモノではないがそれだけだろうか?
上記に引用した部分は農民の姿そのものと思わないか?
自然災害に限らず全ての面で賢治は同苦する覚悟だろ?
農民の苦悩に思いを馳せ、共に悩むと決めた賢治だろ?
大概の自然災害ならば乗越える農民たちにちがいない
一軒だけの問題なら皆が助けることも出来る筈なんだ
では村の存亡に関わる大問題になったときはどうする?
単なる旱(ひでり)は何べんでも乗越えてきた農民だろ?
そのような追詰められた状況になった時どうするんだ?
景気がいい時は博打にウツツを抜かす法印もいたんだ
他所の不幸に援助してあげて太った親父もいただろう
これは他人ごとだなどと言ってられない吾が身の不幸
「雨ニモマケズ」を読むあなたには他人ごとだろうか
そのノンビリした他人ごと感覚では最早済まない状況
そのにっちもさっちもいかない状況になってしまった
あなたならどうする? 天を呪うか? 政治を呪うのか?
だれを呪っても仕方ないから農民は生きる算段をする
生きるのは正しいことだから、今は生きる算段が先だ
その最後の手段の日取りが来るのを待つ身だったかも?!
生きるのが正義でなければ日取りを待つのは悪事だよ
それほど究極の選択を迫られたってふうに私は考えた
農民たちが生きるのを認めるか認めないかの選択の時
農民たちが生きるのが正義なら選択肢も若干は広まる
生きるのを正義とみない人が多いのを私は知ってるが
賢治の思想は農民が生きるのを正義とするベクトルだ
その正義を堂々と叫ぶとき、日取りは善となる道理だ
賢治の友であれば私はその正義を叫ぶべきだと信じる
ファンは客であり、賢治の正義を叫ぶ義務を負わない
役者に涙し、悪役に怒り、賞罰の判決を下す客だもの!
私は客でなく役者でもなく賢治と同じ想いを語る詩人
こう想えない人は日取りの意味を曖昧に済ますだろう
ヒドリは「日取り」「日銭稼ぎ」どちらでも合うんだ
ただしそれは私の理解で賢治のヒドリに沿わしたのだ
どんな想いの日銭稼ぎか、その日がくるのも恐ろしい
そんなヒドリに推敲に推敲を重ねてもマダマダ足りぬ
そういった事のキーワードを入沢康夫氏の資料に観た
入沢氏もイーハトーブも私の観方とは違ったようだし
私の穿ちすぎでなければ彼らの観方が甘いことになり
彼らの観方が正しければ私の観方が考えすぎになるが、
いずれにしても口を閉ざして語らなければ勘ぐられる。
ところで今調べたところ、
入沢氏の件の原稿はイーハトーブで削除されている
入沢氏の「ヒデリ論」で正しいと言うなら残すべきだ
正しい論は残してこそ正義は堂々とまかり通るだろう
いやいや、削除は入沢氏を卑しめる振舞いでないのか?
ともあれ、賢治を粗忽者扱いした行為はどうなるのか?
(賢治は)「書き誤る傾向があった」と書いた事実は消えない。
ともあれ私なりに、
入沢氏の過去記事を探してここに載せたいとは思うが
見つかれば幸いだが‥事実は覆せないと知りたいもの。
次は明日の賢治忌を[ヒドリ]入りで詠んだものです
日取りくる闇に暮るれば賢治の忌 括絲子