恐怖だった。その日、父親の暴力の矛先は私だった。
仕事から帰ってきた父は不機嫌だった。父は二階の部屋に着替えに上がった。祖父、祖母、父、母、兄、妹、私という構成の7人家族の我が家は、夕食前のひと時だった。私たち三人兄妹はテレビの前でふざけ合っていた。バイキングビッケのアニメ、ドリフ西遊記、プリンプリン物語など冒険系の子供が見る番組が夕方にあり、見終わった後、興奮冷めやらずチラシを丸めた剣もどきでチャンバラごっご的な遊びをしていた、誰からともなく「人殺しだぞー」「キャー」「わあぁー」とふざけ合っていた。
父は大きな足音を立てて階段を駆け下りて来た、雷の音のように感じた、そして私の胸倉をつかんでいきなり頬を叩いた。「もう一回言ってみろ!!!」父は激昂しており目が爛々としていた、私は何が起こったのかわからず固まった、父が怖かった。目の前で怒鳴る父に怒りの矛先を向けられ、助けて欲しくて周囲を見回したが、誰も何も言わなかった、誰も助けてくれなかった。何も言わない祖父と祖母、台所から覗く母、その後ろに隠れて怯えている妹、固まっている兄。
「何を」もう一度言えばいいのかわからなかった、間違った答えを言えばまた叩かれると感じ、この状況を早く脱するには?と、どこか客観的に判断する自分もいた。たった今、子供同士で楽しく遊んでいたのに、ここまで怒られる理由がわからなかった。私は恐怖と混乱と困惑で固まり、何がどうなってこうなったのかも分からない、何が悪かったのかもわからなかった。でも謝るしかなかった、父に胸倉をつかまれたまま謝る理由を問うしかなかった、答えは「自分で考えろ」だったけれど。わからなかったことを謝罪し、教えてほしいと言い、ようやく父が怒った理由を教えてもらった、そのやり取りも辛かった。
「人殺しだぞ」という言葉が父の逆鱗に触れたらしかった。ここから先は断片的にしか思い出せない、泣きながら謝った気がする、喉が痛かったし息が苦しかった気がする、しゃくりあげて言葉らしい言葉は出せなかった気がする。母の後ろに隠れた妹や、何も言わない兄に憤慨した気がする。祖父母が助けなかったのはやっぱり私が悪かったからなのかと考えた気がする。そして食後、家族の微妙な雰囲気を何とかしようと、おかしな踊りをして父母を笑わせ、ホッとした記憶がある。
暴力をふるい苦痛を与えた父に怒りがあった、私を守らない母に怒りがあった。それを隠して親に阿るのは子供でも惨めな気分だった。憎い相手を笑わせようと躍起になる自分をいやらしいと感じた。笑ってもらえたことでホッとした自分が嫌だった。私が悪い子だから怒られる、でも本当に私だけが悪いのか?なぜ私だけ?自分だけが矛先にされ裏切られた気持ちだった。家族といえども誰も信用できないと感じた、私が困っても誰も私を助けてくれないのだから。暴風雨の夜にたった一人外にいる気分だった。心も体もバラバラになった、そんな出来事だった。
今でも、許したいとも許せるとも感じていない出来事。ここに何かが埋まっている、私を揺るがす何か、未消化の何かが。今ここを掘っている、未完の完結をするために。