心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

美しいレースを

2022-03-26 20:13:22 | かなしい記憶

母を諦め始めたのはいつ頃だったか、小学生高学年~中学生の頃にははっきり自覚というか、そうだと思わなければやりきれない出来事が多かった気がする。印象に残る出来事は「母に頼まれたレースのお買い物」買い物から帰ってきた私にかけた母の言葉が忘れられない、打ちひしがれ絶望したのだ、母を喜ばせられなかったのだ。

裁縫が得意な母は何かと小物を作成していた。(今でも印象に残るお気に入りは、紺のビロードにオレンジの丸滴型のビーズがちりばめられ、サテンのリボンで縁取りされた巾着袋だ)寒い冬の日、母の裁縫室に二人でいた、珍しく妹はいなかった。母を独り占めでき甘えることができる貴重なタイミングだった、そんな母にお使いを頼まれた、街の裁縫店へ行って「この生地に合う綺麗な白いレースを買って来て欲しい」と。

しかし住んでいた地所はバス停まで歩きで30分はかかる、しかも一日数本だ。自転車で買いに行くにしても片道1時間はかかる、しかも急坂を越えていかなくてはならない。消去法で遠回りだが急坂の無い駅近くの裁縫店に行くことにした、寒くて灰色の空、母とゆっくりしたかったが、期待に応えたかった私は奮起した。向かう道すがら笑顔になった、期待され嬉しかった審美眼を任されたのだ。お店で時間をかけて吟味した、一番綺麗なレースを選ばなくてならないのだ、母の笑顔が見たかった、母に喜ばれ感謝されたかった、期待してくれた母に応えたかったのだ。図鑑で見たお姫様の袖口の飾りのような細やかなレースを選んだ、金額や長さも考慮しなくてはならなかったが、自分としてはベストな選択ができたと満足だった「きっと喜んでくれる」と。

帰り着いた時母は怒っていた、帰宅が遅いとそしてすでに裁縫を終えたと。そうして私が買ってきたレースを見てこう言った、「こんなレース」「お母さんはこんな風に丸くてかわいいレースが欲しかったの」「こんなギザギザのレースを買ってくるなんて、あんたの心はこのレースみたいにギザギザなのね」、そう、母の作成物は出来上がっていた。納得できなかった、時間がかかるのは想定内だろうと。自転車で行って帰ってきても最速で2時間は掛かるのだから、14時なら16時に帰宅になるのは自明の理だ、暗くなるまで出歩いてと言われても、日暮れが早いにこの時期向かわせたのは母だ、私は不服が顔に出た、そんな私に母は「ふてくされた顔をして」と不満を表現したことをも責めた。

喜んでもらえると期待した分失望は深かった。善意や、母への愛情や、審美眼を否定された私はもう何でもよかった。私は母を満足させられないのだと確信したし、最大限の努力をしたつもりだったが母は喜ばないのだから無意味だったのだ、自分が空虚だった。「わぁ素敵なレースだね、寒かったでしょう、わざわざ遠くまで行ってくれてありがとうね、お姉ちゃんは流石だね、役に立つね、お母さんは嬉しいよ」そう言ってほしかった、今でもそう思っている。

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置いていかないで

2022-03-26 15:16:19 | かなしい記憶

母に裏切られた気持ちになったことは数知れなくて、幼い頃の記憶でいくつか、今でも胸が痛み何とも表現できない気持ちになる記憶がある。

筆頭は、置いて行かれた記憶で夏休みの思い出、7歳頃、恒例の親戚合同の海水浴で、足を大怪我していた私は当然のことながらお留守番だった。(父母の中では決定事項だったのだろう)どうしても行きたくて言葉を尽くして母に取りすがり許可を得た、しかし私が忘れ物を取りに部屋に戻った隙に無情にも車は出発したのだ、父母と兄と妹を乗せた車からは笑い声が聞こえた。

エンジン音がして不吉な予感に大急ぎで駆け戻った私は、必死で「待って!!待って!!」と声を出しながら縁側から居間の窓辺へ駆け寄り、玄関に裸足で飛び降り、さらにコンクリートの庭先へ出て車道まで走った「待ってー!!!置いていかないでーー!!」何度も叫んだ。コンクリートの地面はゴツゴツして痛かったし、玄関に裸足で飛び降りる時はルールを破ることに一瞬ためらいがあった、治りつつあった足で走ることは怖かったし痛かった。車は遠くの十字路を曲がりそして橋を越える、家族が乗った白い車が見えなくなるまで、呆然とただ見ているしかできなかった。

後方に私を託されたであろう祖父がいた、裸足を窘めらそうで怖くなり、顔を見ずにすぐに部屋に戻った、たとえ祖父でも惨めな私を見られたくはなかった。ベッドと襖の陰になった部分で隠れて泣いた、声が漏れないよう必死になって口を押さえたけれど、涙と鼻水でヌルヌルした手は気持ち悪くて、惨めで惨めで涙は止まらなかった。嘘を付かないでほしかった、私の目をきちんと見て説明し納得させてほしかった、騙し討ちのように出かけられたことがショックだった。

祖父は私に、半分に切った棒アイスを皿に乗せて差し出した、いつもは言葉少なくやさしい言葉をくれない祖父が、本当は不器用な優しい人だと気づいた瞬間だった。

何十年も経過し、自分も母となり、あの時の母の状況を慮ることもできなくはないが、私は今でも母に不信感と絶望を抱いた「あの瞬間」を忘れられないでいる、こうして書き起こしていても涙が込み上げてくるし、哀しかったと身を絞られる心地がしている。

もしかしたら、こういった体験の一つ一つが自分への不信感や生き辛さに繋がっているのかなと考えている、そしていつかきっとこの気持ちを越えていくと決めている。

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何処に向かおうか

2022-02-13 17:57:06 | かなしい記憶

 

もやもやの原因はそこだったのかという気付き。

自分で自分をごまかして生きて来たんだな、そうしていないと辛くて生きてこれなかったんだ。

幼い自分は母を失望させる駄目な自分を恥じた、役に立てない自分を恥じていた。

母に認めてほしかった、母の満足する自分になりたかった、でもなれなかった。

母を助けたかった、母に笑ってほしかった、失望させたくなかった。

母に駄目なお姉ちゃんと言われて悲しかったけど、母がそう言って満足ならそれでもよかった。

私を傷つけることで母が報われるならそれでよかった、それが母の決めた私の役割なら。

 

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