人はなぜ意地悪するのか?それは人間は社会的な生き物だから。利害関係は変化するもの対立が起こるのは自然なことであり、雨が降るのと同じ事。全部の対立は避けられないものであり、ある程度受け入れていくしかないもの。正しいと信じてした行為が対立を生んだならそれは仕方がないという事。
小中時代の同級生からの意地悪、社会人になってからの職場の人間からの意地悪、妹や母からの悪意、今の職場で感じる嫉妬と悪意。これまで何故なのかずっと疑問だった。理由を知りたかった、知れば対処できるから、私が間違っていたのなら直せば誤解は解けると思っていた、だから嫌われたならその理由を知りたかった。
私には意地悪される大きな誘因がある。それは発達的な問題で他者理解や自己理解が浅いから、統合的な判断ができていないから空気を察せないのだ。そして私は「のほほん」としているように見えるのだろうと思う。正直と真面目を気取っているように見えるのだろう、うまく人に合わせられないために真面目に誠実に生きるしかできない愚直な私は、気を付けていても空気が読めない。そのために対策と戦略を練り良い人であろうとあの手この手で関わる、それがうっとうしいのだろうと思う「見ているとイライラする」のだろうと思う。無意識に失礼なことをして地雷も踏みまくりだったように思う。そんな愚かで間抜けな私は格好の標的でもあったと感じている、憤懣のある人間にとって意地悪されるだけの理由があるし膨らませやすい不器用な人間なのだ。
努力しても幼稚な愚かさは根本的には治らない、それは特性だから、無策で政治力がないし腹芸ができない。嫌味は高等技術であり皮肉など言えるほど練れていない。軽率な一言は純粋に軽率だから口から出てしまう。学びを深めていくと、意地悪する人間にもその人なりの課題があり未熟さがあるという事を知る。成熟した人間は相手が愚かでイライラしてもあえて意地悪はしないのだ、それが人徳であり優れた人間性なのだ。もちろん人間だから意地悪な気持ちもあるがコントロールできるのだ、限界はあるだろうけれど。
夫曰く。関わらない、知ろうとしない、意地悪な人間に好かれる必要は無い、嫌うような人間には嫌われたままでいい、嫌われる理由を考えるのは無駄なこと、基本関わらないこと。知れば対策したくなるから分析もする必要なし、当たり障りのない関りで十分、喧嘩を売られても買わない。私には無いコンセプトだった。