Takekida's log

千里の道も一歩から

子育てに論語

2013-10-12 22:08:19 | Books
10月になっても暑い日が続きます。今日は保育園の運動会に参加してきました。と言ってもまだ一人でできるような種目は無いので親子で…といった程度ですが来年ぐらいからは一人で種目をこなしてくれるようになるのかと思います。保護者のゲームで久しぶりに綱引きをやりました。秋晴れで日中はかなり暑かったのですが夕方になってぐっと気温も下がり、季節の歩みを感じられる日でした。


大平光代の“子育てに効く
クリエーター情報なし
中央公論新社


弁護士であり、非行問題に尽力している大平光代さんの本。自らも波乱万丈の人生でダウン症の娘を出産した後に子育てに対して向き合ってきたことを論語に絡めて記された本です。大平さんは親が論語好きで子供のころから接してきたとのことで改めて子育てを通して見えてきた論語の奥の深さ、真理というのに気付かされたということです。 子供は親の鏡と言いますがやはり家庭での常識がその子の社会での常識や素地となるというのは言うまでもありません。もちろん人格形成は社会や他者との関わり合いにより成り立っていくものですが家庭はそのベースなのかと。最近、親のすることを良く真似をすることがあり、あらためてそんなことを感じます。自分も胸を張って模範なことが出来ているようなこともないので反省すべき点は多々あると思いますしその分、今後も学ぶことをやめてはいけないと強く感じています。


“子張曰く『何をか四悪と謂う。』子曰く『教えずして殺す、之を虐と謂う。戒めずして成るを視る、之を暴と謂う。令を慢にして期を致す。之を賊と謂う。猶しく之れ人に与うるなり。出納の吝かなる、之を有司と謂う”
「子張が「四つの悪とはいかなることを言いますか。」と問うた。孔子がいうには「平素、善を為すことを教えないで悪を為したからといって殺すのは残酷である。これを虐という。まず戒めないでその成績を検査するのは不意打ちである。これを暴という。命令を緩慢にしておいて、後になって期限を定めて実行を責めるのは民を害するものだ。これを賊という。有効者に賞を与えるような時は直ちに与えるべきなのにこれを出し惜しむのは、人君の為すべきことではない。これを有司(財物の出入を司る役人)という」

 基本的に教えていなければ出来ないというのは重要なことです。まず基本的なことを教えるところから。
理不尽なことはしない。そして褒めるときは寛大に。基本は変わっていないということです。

“子曰く、弟子(ていし)入りては則ち(すなわち)孝、出でては則ち悌、謹みて信あり、汎く(ひろく)衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば、則ち以って文を学ぶ。”

先生がおっしゃった。『若者たちよ、家庭に入れば親に孝行を尽くし、家庭を出れば地域社会の年長者に従順に仕え、言行を慎んで誠実さを守り、誰でも広く愛して人徳のある人格者とは親しくしなさい。これらの事を実行して余力があれば、そこで初めて書物を学ぶとよい。』

まずは学問の前提となる道徳を身につけなさいという基本。他者の視点に立てるかというのはなるべく他者の立場に立ってみるしかないのだと思います。そういった観点からお手伝いとかごっこ遊びというのは重要なのだと感じます。

“子曰く、我(われ)は生まれながらにして之を知る者に非ず。古(いにしえ)えを好み、敏にして以て之を求めたる者なり”

先生がおっしゃった。私は生まれながらにして学問ができたわけではない。古代の聖人賢人の道を好み、一心不乱に勉強してやっとこれを身につけたのである。

努力無限、トライアスロンを始めて知った言葉でした。100万時間の法則ではありませんが天才と努力家というのは多くは表裏一体のものと思います。自分はまだ足りないです。


“子の日わく、君子は和して同せず、小人は同して和せず”
先生がおっしゃった。「教養人は和合はするが雷同はしない。小人は雷同はするが和合はしない」


簡潔に主体性を持つことの重要性を言い表した言葉です。大人になると自由度は上がるわけでますます自分はどうするのかという判断が大切と感じます。


自分自身に関しては下記のような言葉が響きました
“子の日わく、位無きことを患えず、立つ所以を患う。己を知ることなきことを患えず、知らるべきことを為すを求む”
先生がおっしゃった。「己の活躍する地位がないといって嘆かない己が世に出るだけの理由が無いことを反省する己の力量や才能を知る人がいないといって嘆かない。逆にあの人は優れた人物ですとこちらが知るべきことをなすようでありたい」
同じような例で批判は人をきづつけるが反省するのは自己完結できるし、無制限である、だから自分はとことん反省するようにします。という話を最近耳にしました。まったくその通りのところはあると思います。
他人のせいにするのは簡単ですが本質は自分自身にあると考えなくてはいけないと思います。

“子の日わく、奢れば則ち不孫、検なれば則ち固なり。その不孫ならんよりは寧ろ固なれ”
先生がおっしゃった。「おごり高ぶれば不遜となる倹約すぎると(自分の殻に閉じこもる)固陋となる。他社にとって不愉快な不遜よりは自分自身の問題で終わる固陋の方がましである」

自分の意志の強さというのは重要だと感じます。相手を不快にさせる倹約が無いわけではなく人間関係のところは少し別枠なのだと感じますがここでも知足の精神が必要ということなのでしょう。





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2 Comments

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主体性について (まっつん)
2013-10-13 20:04:36
雷同のところのコメントに共感しました。

今の職場はいろんな人生を歩んできた方がいるので、人生の選択について勉強させられます。
自由度は高い分、「自分はなぜ今これをしているのか。」と考える癖をつけないと、あっという間に還暦のような気がしています。
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Unknown (たけきだ)
2013-10-14 15:17:03
まったくそうですね。ただあまり考えすぎるのもというのもあります。自分はどちらかというと流されてしまっているように感じますがかといって切り開く自信は無いです。であるからこそ使命を全うするべきなのだと考えています。
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