天文4年以降の中条氏の動向を景資を中心に検討していきたい。前回中条藤資の死去を天文4、5年頃としたが、それを踏まえながら進めていく。
天文の乱において為景と敵対した中条氏ら揚北衆だが、天文6年には上田長尾房長と戦う為景が「下郡衆着陣遅々断而遂催促候、定漸可動出候」と述べていることから(*1)、為景から出陣要請を受けていることがわかる。この時点までに中条氏ら揚北衆は為景と和睦したと考えられる。
[史料1]『新潟県史』資料編4、1438号
其後者不承候、弾正忠殿令一和候以来御馳走由、松岡申之候、本望至候、弥以御忠節尤簡要候、何様爰元一途之上、各以談合御配当刻、涯分可存其旨候、委細松岡可申分候、恐々謹言、
二月廿三日 絞竹庵張恕
築地彦七郎殿
[史料1]は長尾為景の入道名絞竹庵張恕より天文5年から天文10年の間のものである(便宜上ここでは為景で通す)。宛名の築地氏などから「弾正忠」とは中条弾正忠のことで、中条藤資は「越前守」「越州」と呼称されているのが確認されるからこれはその嫡子中条景資を指すと考えられる。「殿」という敬称が付属しているのは、景資が為景の婿にあたる立場に由来しよう。病気である記事を最後に史料上から藤資が消え景資が登場することは、藤資の没年の裏づけになるであろう。また、「令一和候」とあることから、為景と景資の間で和睦が成立したことがわかる。「各以談合」より他の揚北衆諸将も為景と和睦していると考えられる。この文書の年次は天文の乱後、天文6年8月「下郡衆」の出陣催促の前であろうから天文6年の2月に比定されよう。為景は天文5年8月下旬から本格的に上田長尾氏との抗争に突入することから、それ以前に揚北衆との交渉がなされた可能性もある。以上より、天文5年に天文の乱を終結させた為景は直後から中条藤資を失った揚北衆と交渉し和睦、情勢を整えてから上田長尾氏との抗争の開始へと進んでいったことが推測されよう。
[史料2]同上、1482号
(前略)
将亦先年中条弾正忠伊達之義馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷、伊達之人衆本庄・鮎川要害把之条、彼面々大宝寺へ退去、已他之国ニ罷成義、難ヶ敷候間、色部令同心、揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き、然処ニ先弓矢之以威気、境候上郡山引付(後略)
天文廿一年
六月廿一日 黒川実
山吉丹波入道殿
[史料2]は後年黒川実氏が中条氏との対立を振り返っている書状である。伊達入嗣問題は天文7年に守護上杉玄清が伊達稙宗の子時宗丸を養子にしようと計画し、揚北衆と伊達氏を中心とした軍事的混乱を招いた事件である。この問題について景資を中心に考えていく。
この時、長尾為景・晴景父子は上杉玄清側にあり養子計画を押し進めていたことは、「自伊達御曹司様御上為御要脚」(*2)を名目に段銭徴収が行われていたことから明らかである。そして、[史料2]「中条弾正忠(景資)伊達之義馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候」より伊達氏との関係を取り持ったのは景資であるとわかる。中条氏と伊達氏には婚姻関係があったという所伝があり、『上杉氏年表増補改訂版』(編池亨・矢田俊文)では「この説の根拠は明快ではない」としながら藤資の妹が伊達稙宗に嫁ぎ時宗丸の母となっていた可能性を示している。すなわち、長尾為景、伊達稙宗の双方と婚姻関係にあった景資が養子計画を進めるにあたって重要な役割を担っていたことになろう。
しかし、[史料2]「剰彼以刷」とあるように景資と伊達氏が協力し軍事行動を開始してから揚北内の混乱が増していく。伊達氏は天文8年には本庄房長を追い、小泉荘の色部領以外をその影響下に置いたと考えられる。[史料2]より、その後黒川清実、色部勝長が中心となって伊達氏に協力する景資を攻撃したことがわかる。この頃には長尾晴景が中条攻めを支持している(*3)。伊達入嗣問題の結果揚北諸将により居城を攻められた景資であるが、伊達晴宗の仲介もあり存続することができたようである(*4)。後年、山吉豊守書状(*5)において「先年とつさか御帰城之子細」とあり、これはこの時に鳥坂城が落城しその後復帰したことを指すと考えられる。この鳥坂城落城の年次は、揚北衆と伊達晴宗、長尾晴景が協調していることから天文11年に比定されると考えている。
これ以後、中条氏として史料にみえるのは「弥三郎」であり、景資の活動は確認できなくなる。伊達入嗣問題に関連して隠居を余儀なくされたといった理由が考えられるであろう。鳥坂城落城の年次比定を含め、伊達入嗣問題についてはまた別の機会に詳しく検討したい。
さて、先に景資は大永6年(1526)時点で婚姻と軍役従事が可能な10~15歳程度と仮定した。よって、その誕生は永正10年(1513)前後ということになる。父藤資も20歳前後であり妥当である。景資は享禄5年(1532)20歳前後で嫡男房資が生まれており、天文5年(1536)24歳前後で家督を相続したわけだが、どちらも適当な年齢である。『中条氏家譜略記』などに中条藤資の没年は永禄11年(1568)2月とあるが、藤資は先述の様に天文5年頃に死去しているから、これは景資の没年と想定できるだろう。享年55歳程であった。
次回に景資の晩年と次代房資について考察していきたい。
*1)『越佐史料』三巻、817頁
*2)同上、845頁
*3)『新潟県史』資料編4、2076号
*4)同上、1056号
*5)同上、1906号
※23/6/18 天文の乱・三分一原合戦に言及した部分について修正した。
※23/9/8 為景の入道名を絞竹庵へ修正した。