鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

中条藤資の動向3

2020-07-04 09:31:23 | 和田中条氏
享禄3年(1530)に上条定憲(後定兼と改名するが便宜上定憲で通す)と長尾為景が対立し享禄の乱が勃発する。藤資を始め揚北衆は為景に味方し、享禄4年(1531)藤資40歳の時、為景方の武将たちによって越後衆連判軍陣壁書(*1)が作成されるに至る。

天文2年(1533)には上条定憲が再び挙兵し、天文の乱が勃発する。この時藤資は他の揚北衆と同様に、為景方を離反し上条方に味方するようになる。藤資が為景に敵対するのは初めてのことであり、それは為景が祈願文(*2)において「当敵上条播磨守(定憲)并同名越前守(長尾房長)、叛逆之張本人中条越前守(藤資)、新発田一類速退治事」と述べていることからも衝撃の大きさがわかる。数年に渡り為景と定憲の抗争は続くが主戦場は上郡から中郡であり、しばらく藤資の動向は史料に現われない。

天文4年(1535)になると上条定憲が蒲原津を拠点に揚北衆ら味方の結集を図る(*3)。6月25日の定憲書状(*4)には「奥山・瀬波之衆明日廿六至于蒲原津着陣、不及休息可遂越河候」とあり奥山荘を拠点とする中条氏の存在がみえる。8月には定憲と長尾房長が平子氏を勧誘する中「奥衆一筆」を望まれたことから、藤資が本庄房長、鮎川清長、黒川清実と共に平子氏へ西古志郡内の知行を認めている。9月には羽前庄内の砂越氏維へ藤資、本庄房長、色部勝長、鮎川清長、水原政家、新発田綱貞、黒川清実が連署して援軍の要請を行っている(*5)。伊達氏、大宝寺氏の援軍(*6)や蘆名于氏の援軍(*5)も確認でき揚北衆の関わりが想定されるだろう。この年藤資を始め揚北衆が上条定憲を頂点とする政治体制を支えていたことが窺われよう。しかし、翌天文5年には藤資、定憲の活動は見えなくなり、越後国内を巻き込んだ反乱から為景と上田長尾房長の抗争を中心とした局面へと移っていく。天文6年8月には上田長尾房長と戦う為景が「下郡衆着陣遅々断而遂催促候、定漸可動出候」と述べており(*7)、揚北衆がこの時点までに再び為景と和睦し出陣要請を受けていることがわかる。

ここで注目するのは、先述した天文4年9月16日中条藤資等7名連署状(*5)である。使者に桃井氏がみえるなど上条氏の関与がはっきりし、揚北衆が上条方として軍事活動しようという意思がみられる。しかし、藤資の署名には花押がなく、追而書には「藤資事歓楽故不能判形候」とある。広辞苑を引くと歓楽とは「①よろこび楽しむこと。②ぜいたくに楽しくくらすこと。③病気の忌詞。」とある。ここでは③の意味で用いられたと考えられよう。文明年間に、黒川氏実入道応田が自ら「病気」(*8)としているものを家臣団が「入道殿様就御歓楽」(*9)と表現しているという例があり、応田はそこで「歓楽故弥々煩候間、不能判形候」と述べており、藤資の場合も病気により花押が書けない状況であったと考えられる。そして、これ以降史料上に「藤資」が見られず「越前守」も弘治元年まで所見がなく、その間中条氏として「弾正忠」や「弥三郎」が見える。これらの人物は次回以降詳しく検討するが、「弾正忠」は次世代景資、「弥三郎」や弘治期以降の「越前守」は次々代房資である。つまり、藤資の所見は史料上天文4年が終見であり、藤資は天文5年頃死去したと考える。

没年について考察を進めると、天文5年以降上田長尾氏が反抗を続ける中揚北衆の抵抗が見られないこととの関連が推測される。天文4年に上条氏の中心として活動していた揚北衆であるが、その後は目立った活動を見せず、そのまま天文6年の和睦に至る。天文の乱における揚北衆の中心は、この頃色部氏や本庄氏で家臣の反抗による混乱が見られたことを考慮すると為景祈願文(*2)にも上条氏らと並んでその名見える中条藤資であったと考えられよう。すると、今考察した藤資「歓楽」の件と揚北衆の動向が一致してくる。すなわち、揚北衆の反為景連合は、天文の乱において中心的存在であった中条藤資の病気もしくは死去によって崩壊したと考えられる。その後の文書上に藤資が確認できないことから、この時点で藤資の武将としての活動が不可能な程重病であったと見ることができよう。先に例に挙げた黒川応田もその後死亡しており「歓楽」は重病を表すとみてよく、藤資も遠くない時点で死亡したと考えられる。藤資の死が揚北衆を為景の和睦へ向かわせたのなら、死去は天文4年末から天文6年半ばの間だろう。天文4年(1535)で藤資44歳であった。『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』に伝わる没年永禄11(1568)年77歳までの生存は考えにくいだろう。これは次代景資の没年にあたるのではないだろうか。

以上、中条藤資の動向を追ってきた。長尾為景へ接近し婚姻関係を結び中条氏の立場を盤石にしつつあった前半生が明らかとなり、享禄天文の乱の混乱に際しては反為景の重鎮として活動するも病に倒れ、それが乱の趨勢にまで影響及ぼしたことが想定されるに至った。今後、次代景資、次々代房資と考察を続けていきたい。


*1)『越佐史料』三巻、781頁
*2)同上、794頁
*3)同上、811頁
*4)同上、812頁
*5)同上、822頁
*6)同上、604頁
*7)同上、818頁
*8)『新潟県史』資料編4、1898号
*9)同上、1337号

※23/6/18 これまで三分一原合戦を天文5年4月とし天文の乱に関連したものとしきたが実際は永正11年4月と考えられるため、言及部分を修正した。三分一原合戦については記事参照(三分一原合戦の実像 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)

※24/8/24 一部わかりにくい表現を改訂した。