戦国期に出羽国小国を拠点として活動した上郡山氏は、羽越国境という地理的性格から越後、特に揚北衆との関係が深い。今回は所伝や史料類から、その系譜を検討してみたい。
上郡山氏の系譜に関する所伝をまとめたい。
『小国町史』は天授6年(1380)の伊達氏による置賜郡攻略により小国は粟生田氏に任され二代続いた後、上郡山氏に代ったとしている。同史は上郡山氏の系譜を、民部大輔盛為-為家-景為、と示し盛為以前は不明としている。景為の代に伊達氏の移封があったとする。
また、『飯豊町史』は上郡山景為の養子として中津川丹波守実子の右近丞仲為の存在を挙げている。また、その実弟内匠常為も景為の養子となり、子に高為、重常がいたとする。
寛政4年(1792)成立『伊達世臣家譜』には上郡山氏について、常陸介景経-民部大夫景為-内匠常為-内匠高為、という系譜であるとしている。
ここからは、史料から上郡山氏の系譜を探っていく。
天文11年の伊達晴宗書状案写(*1)において、晴宗が「上郡山常陸介」の城を攻撃するよう揚北衆に依頼している。この常陸介は同年の上郡山為家書状(*2)から為家を名乗ったとわかる。
天文22年の『晴宗公采地下賜録』には「上郡山民部太輔殿」が、永禄10年に比定されている上杉輝虎書状(*3)の宛名として「上郡山民部小輔殿」が、天正7年には伊達輝宗書状(*4)中に「上民」が確認できる。民部大輔と民部少輔は小差であり、同一人物と考える。正しくは所見数の多い民部大輔であろう。為家の後継者であり、[史料1]より実名は盛為である。
[史料1]『歴代古案』第一、108号
座敷之儀、以御分別被引上被差置、是畢竟頼入候之間、直山へ能々御入魂、肝要第一ニ候、以上、
七月一日 上民
盛為
(宛名欠く)
宛名の「上民」は上郡山民部大輔を表す。[史料1]は「直山」が直江山城守兼続を表すことから天正11年以降のものとされる。さらに、「座敷之儀」に注目するとそれは天正11年に本庄繁長が「座敷是又相定上杉十郎席候」とその席次を上げていることと関連があるだろう。上郡山氏に関係するとしたら揚北衆の話題であろうから、揚北衆本庄氏の座敷について言及しているのは自然である。よって、[史料1]を天文11年に比定する。為家の後継者としてみえた盛為は天正11年の段階でも民部大輔を名乗っていたとわかる。
新発田重家の乱に際しての文書である6月18日付上杉景勝書状(*5)に宛名として「上郡山常陸介殿」が見える。「当郡就出馬」と景勝が新発田氏攻めを計画し、「輝宗于今東口御立馬之由、定而可被属素意由、存之候」と伊達輝宗の出陣について記してある。内容から同年のものである遠藤基信書状(*6)に朱書で「天文十一年」とあるが、天文11年の6月時点では景勝は新潟に在陣しており「従府内新潟へ御下向、御備御床敷候処、被返馬候哉、其以後新発田口無何事候哉」という内容とそぐわない。輝宗の隠居天文12年末までの書状であり、『性山公治記録』(元禄16年成立)によれば天正12年の5月に相馬領へ出陣し和睦を締結しており、この年6月に景勝は新発田攻めを計画のみで実現せず終わっているから(*7)から、この書状は天正12年6月のものと考えられる。
よって、盛為は天正12年に常陸介を名乗ったとわかる。
元禄16年(1703)成立の『貞山公治家記録』の天正13年8月28日の項に「羽州置賜郡長井荘小国城主上郡山民部景為」と後藤信康へ伊達政宗から小手森城落城を知らせる、とある。『記録』は続けて「上郡山氏姓ハ藤原ナリ。景為父を常陸ト称す。諱不知。其先不知。」と説明している。天正11年まで民部大輔で見える盛為が常陸介を名乗ると、代わって子である景為という人物が民部大輔を名乗ったと想定できる。
景為の存在を史料的に示しているのが[史料2]である。
[史料2]『大日本古文書』家わけ三の一
近日者無音、心外存知候、仍其口令雑意、雑々申来候、就中御旦方御前、分而世間申成候由承候、是のミ御床敷令存候処ニ、御陣へも被令申分、近比御出陣可有之なとと承候、必定ニ御座候哉、如何承度候、我々事も、長井殿いまニ不罷立候間、先々延引仕候、各々参陣いたされ候者、早々可罷立候者、其刻遂面会、諸事可申承候、恐々謹言、
猶々遠境故、御旦方へ細々御ゆかしき由令申入候事、くれくれ口惜存候、此段御次之刻、御心得頼入候、尚々助さえもんとの有かたかた御ゆかしきよし、しんしやくなから御伝言任たてまつり候、
林鐘十四日 上郡山
景忠
七々
萩孫 御宿所
宛名「萩孫」は上杉家中の萩田孫十郎長繁だろう。孫十郎は天正5年2月に謙信から一字を与えられているのが初見であり、天正16年には主馬允に任官している(*8)からこの間のものである。
『大日本古文書』は「景忠」と読むが、これは「景為」ではないだろうか。東京大学史料編纂所データベースにおいて[史料2]の影写本が確認でき、「為」字の斜線や曲線が出ているように見受けられる。影写本の注釈はあくまで「景忠カ」としており実際に「景為」である可能性はあると思う。
所伝において景為の存在は一貫して伝わっていることもあり、盛為の次代にあたる民部大輔は実名景為を名乗ったと考える。
さて、景為の次に上郡山氏としてみえるのは仲為である。天正17年に比定される連署覚書状(*9)の発給者として和久宗是と並んで「上郡山右近丞仲為」が確認できる。また、同年前田利家・浅野長吉連署状の「猶上郡山右近丞方可申入候」とあり、天正18年4月に比定されている木村清久・和久宗是連署状(*10)に「右近」、同じく守屋意成・小関重安連署状(*11)に「上右」が見えている。仲為はその官途名や伊達氏の使者として活動していることから中津川丹波守の実子という所伝は肯定できる。
よって、天文期に常陸介為家、天文後期から永禄、天正にかけて民部大輔/少輔、常陸介を名乗る盛為、天正期に民部大輔景為が存在した。天正後期からは右近丞仲為が確認される。
以上から、戦国期上郡山氏の系譜は
為家(常陸介)-盛為(民部大輔/常陸介)-景為(民部大輔)=仲為(右近丞)
と想定される。その後、景為の養子常為が上郡山氏を継承した。
最後に、盛為、景為に関する所伝に言及したい。小国小坂町の光岳寺にある位牌に「永録五年壬戌八月朔日」の日付で「上高院殿光岳正公大庵主」「上郡山民部大輔殿」とあり、過去帳には「永禄五年八月仙台家の時当処小坂城主上郡山民部大夫盛為・景為開基上高院殿当時開基光岳正公大庵主」とある(『小国町史』より)。永禄5年8月に没した上郡山民部大輔が光岳寺の開基だったという。ただ『小国町史』は、越後湯沢松岳寺は康正2年(1456)に大通俊永和尚によって小国光岳寺と同時に開山したとの所伝があり、また六代目の住職の没年が慶長10年と伝わることからも、光岳寺の創建は永禄より大きく遡るのではないかとしている。先に見た史料からも天文から天正にかけて盛為は所見されており、小国光岳寺の開山とされる康正2年(1456)は上郡山氏が入部したという説とも年代的に合うことから、『小国町史』の見解は支持できる
よって、この所伝はあまり信用ならないようであるが、その背景として憶測ではあるが何らかの状況を考えると以下の通りである。例えば、上郡山氏が伊達氏の転封に従ったのち上郡山常為が養父景為の菩提を弔うため開いたと伝わる宮城大崎の光岳寺の開山に関係するのではないか。過去帳の「仙台」という語句も何かそれに近いものを示しているような気がする。或いは、永禄は文禄の誤りで、盛為もしくは景為の没年が文禄5年なのだろうか。『小国町史』にある為家の没年文禄2年は、活動時期的に為家では釣り合わず、盛為もしくは景為が文禄年間の死去した可能性はあると思う。この所伝について本当のところはわからないが、盛為や景為の存在が後世にも伝わっていたことは確かであろう。
*1)『越佐史料』三巻、856頁
*2)『新潟県史』資料編4、2045号
*3)『上越市史』別編1、559号
*4)『上越市史』別編2、1843号
*5)『米澤市史』資料編1、461号
*6) 同上、462号
*7) 『上越市史』別編2、2947号
*8) 同上、3263号
*9)『米澤市史』資料編1、584号
*10)同上、605号
*11)同上、606号