鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

桃井氏の系譜1

2020-10-16 00:03:20 | 桃井氏
戦国期越後桃井氏の系譜を検討してみたいと思う。読みはモモノイである。


永正6、7年に勃発する長尾為景と山内上杉可諄・憲房の抗争において「桃井讃岐守」が山内上杉氏方で活動している様子が見える(*1)。永正7年6月には「黒瀧要害之事者八条修理、桃井一類在城堅固に候」(*2)と具体的な活動も確認される。ただ、上杉可諄敗死後の動向は不明である。

桃井讃岐守は享徳の乱に関連して関東での活動も見られるから、系譜関係はひとまず保留する。


享禄4年1月の越後衆軍陣壁書写(*3)にある署名「桃井伊豆守義孝」がみえる。この所見から義孝は越後を拠点にしての活動が明らかである。

天文の乱においては、上条上杉氏方で桃井氏が見える。天文4年9月砂越氏維宛の本庄房長等7名連署状(*4)において「自桃井弥次郎方被申越候」「巨細桃井方、本庄孫太郎方へ申下候、無御心元題目不可有之候、弥彼両人被仰合、於刷共者、可被相任之候」すなわち、出羽庄内の砂越氏に援軍を頼みその使者として本庄孫太郎と桃井弥次郎が遣わされたと読み取れよう。桃井弥次郎は先述の桃井義孝の一族ではないだろうか。天文の乱は長尾為景の優位に終結するが、これ以後も桃井氏の所見がありその存続が確認できる。


続く所見は、第一次黒田秀忠の乱に関する天文17年10月長尾景虎書状(*5)である。ここに、「兄候弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外之間、遂上郡候。覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候」とある。長尾晴景に対し反乱を起こした黒田秀忠討伐のため景虎が登場するわけであるが、この際桃井氏と談合したことが記されている。この頃においても、桃井氏が府内長尾氏と協調しながら影響力を保っていたことが窺われる。


『越後平定以下祝儀太刀次第写』では、永禄2年に長尾景虎へ太刀を献上したとされる人々に「直太刀之衆」中に「桃井殿」が見える。「直太刀之衆」は、「越ノ十郎殿」「桃井殿」「三本寺殿」の三名のみで構成され、家格の高さを表しているといえる。

この「桃井殿」について『上杉御年譜』は「桃井清七郎」とする。『越後平定以下祝儀太刀次第写』には「本庄清七郎殿」が見えるが、「清七郎」は後筆とされ、加えてこの頃の栃尾本庄氏を代表する人物は本庄宗緩もしくはその次代新左衛門尉であるから、この記述は誤りであろう。後年本庄清七郎が登場することから、桃井清七郎と混同された可能性はある。『上杉御年譜』を信用して清七郎と比定したい。清七郎は、伊豆守義孝の後継であろう。清七郎は、以降に見える右馬助、伊豆守と同一人物であろう。

永禄3年8月には関東出陣に際して出された長尾景虎掟書(*6)の宛名に長尾小四郎、黒川竹福、柿崎和泉守、長尾源五と並び「桃井右馬助殿」が所見される。

永禄4年4月には上杉政虎が「御くらニもものい右馬助進上の大かたな御さあるへく候」(*7)すなわち、桃井右馬助が進上した太刀が蔵にあるだろう、と言及している。


[史料1]『信濃史料』十二巻、327頁
改年之佳慶、漸雖事旧候、猶更不可有儘期、仍為御祝儀、太刀一腰令進入候、誠表万幸之一儀迄候、何様永日可申宣候条、不能詳候、恐々謹言
  三月十六日                  伊豆守義孝
 謹上 高梨形部太夫殿 御宿所

[史料1]は『信濃史料』において永禄4年3月に比定されている文書である。『上杉御年譜』が永禄7年9月の頁において右馬助にあたる人物を「桃井伊豆守義孝」としていることなどから、この書状を含め実名「義孝」に比定されることが多い。しかし、それでは先代と同じ名前となる。二代続けて同じ実名という例も勿論あるが、不自然さは拭えない。

そして、永禄4年3月に「桃井伊豆守」を名乗っている点は、先述した永禄4年4月の「もものい右馬助」という記述と矛盾する。景虎の知らない所で受領名を名乗り始めたとも考えづらい。[史料1]は右馬助の先代にあたる伊豆守義孝の発給文書である可能性が高いといえる。よって、永禄期の伊豆守の実名が「義孝」である史料的裏づけは乏しく、慎重に考えるべきではないだろうか。

永禄8年4月には上杉輝虎が上州長井へ派遣した武将のひとりに「桃井」が見える(*8)。

永禄11年8月の上杉輝虎書状(*9)に「いつミ弥七郎江為添侍、もものい伊豆守・か地あきのかミ城代申付さし遣し、城下二のくるわニさし置候、弥七郎ハ城ぬしの事ニ候間、実城にもとの如く守りい候様に、かたくこれを申つけへく候」とある。永禄10年8月から10月にかけて大規模な普請が行われた飯山城へ、桃井伊豆守らが在番を命じられたことが読み取れる。

時代は下って、謙信死後御館の乱において天正6年5月に上杉景虎方についた桃井伊豆守が戦死したという記録が所見される。

『景勝一代記』『越後古実聞書』によれば、信州飯山城の桃井伊豆守が5月16日に御館に着陣したとする。さらに両書は翌17日に上杉景虎勢が春日山城を攻めるもその日の内に敗退、桃井伊豆守も深く手負いその日の暮れに死去したとする。

これについて、『上杉御年譜』は次ぎのように記す。「五月十七日、桃井伊豆守ヲ武将とし多兵を率し、春日山ヘ攻寄る、味方には兼て防戦の軍議定めし事なれば、城中人無いが如くして鎮り至る、敵兵は我先にと攻上る処を、思ふ図にて寄て、大手の千貫門を開き、諸兵急に突いて戦う、敵兵辟易して退んとすれども、山城の事なれば進退自由ならざれば、先勢は崩れ立て敗北し、岩谷に伝い落て亡命する者数を知ず、敵将桃井伊豆守討死す」。


御館の乱終結後、天正10年4月には「桃井宮内少輔」の活動が見られる(*10)。飯山周辺での活動であり、伊豆守の後継者とみて良いだろう。


『文禄三年定納員数目録』には飯山周辺の領主奈良澤主膳の同心として「宮内子 桃井喜兵衛」、尾崎衆の同抱として「桃井将監」が見える。


以上から、越後桃井氏として

義孝(伊豆守)-(清七郎、右馬助、伊豆守)-(宮内少輔)-(喜兵衛)

という系譜を推定した。また、義孝の活動期には弥次郎という一族が確認された。

今回詳しく触れられなかった御館の乱以降の桃井氏の動向と、讃岐守の系譜関係を含めた越後桃井氏のルーツについては、また別に考察してみたい。


*1)『越佐史料』三巻、519頁
*2)同上、542頁
*3)『新潟県史』資料編3、269号
*4)『新潟県史』資料編5、3627号
*5)『上越市史』別編1、3号
*6) 『上越市史』別編1、211号
*7)同上、274号
*8)同上、456号
*9)同上、615号
*10)『越佐史料』6巻、182頁