前々回越後桃井氏の系譜を検討し、前回越後桃井氏とは別系統の関東系桃井氏と京都奉公衆系桃井氏が存在することを確認した。今回は、京都外様衆系桃井氏の存在を踏まえ、越後桃井氏のルーツを考察していく。
結論から言えば、越後桃井氏は京都足利幕府の外様衆出身であり、享徳の乱における関東下向をきっかけに越後に定着したと推測する。
まず、「桃井讃岐守」について改めて確認する。上杉氏と古河足利氏の抗争である享徳の乱(*1)とその後の越後においてその名が見られる。
『松陰私語』(*2)における文明三年下野児玉塚、佐野への上杉方進軍に関する記述の中に、「(岩松家純・明純の記述略)・桃井讃岐守・上杉治部小輔・同名形部少輔、武州成田以下為先、当方二千五百余騎、向児玉塚発向」とある。さらに、その翌年反攻してきた足利方と利根川を挟んで対陣する上杉方として「管領上杉、(岩松氏の記述略)、桃井讃岐守・上杉上条・八条・同治部少輔・同形部少輔・上杉扇谷・武・上・相之衆、上杉庁鼻和、都合七千余騎」とある。これらについて、森田真一氏(*3)は上杉一族より前に記されていることから桃井讃岐守が家格の高い人物であると想定している。
明応9年の本庄氏の反乱に際して、その派遣軍の中に「桃井殿」が見える(*4)。併記される「飯沼丹後」と異なり「殿」の敬称が付されていることから、ここでも家格の高さがわかる。
永正6、7年に勃発する長尾為景と山内上杉可諄・憲房の抗争において「桃井讃岐守」が山内上杉氏方で活動している様子が見える(*5)。
次に、京都で所見される外様衆としての桃井氏を検討していく。幕府の諸番帳において「外様衆」の内に記載があることのみで確認できる系統である。文安年間(1444~49)成立の『幕府番帳安』に、「桃井右馬助」。寛正年間(1460~66)成立の『大和大和守晴完入道宗恕筆記一』に、「桃井右馬頭」。同寛正年間成立の『条々事書』に、「桃井右馬頭」。長享元年(1487~89)成立の『長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』に、「桃井右馬頭」が確認される。
これを、外様衆系と呼んでおく。ここでいう外様衆とは「国持」と呼ばれる大名ではなく、相伴衆、奉公衆などと並ぶ室町幕府の構成員のことである。外様衆は木下聡氏の研究(*6)に詳しく、それによると桃井氏が外様衆に属する背景を南北朝期に越中・能登守護を経験した家格によると推測している。また、「桃井右馬頭」は番帳にしか名が見えず『長享』番帳を最後に所見されないという。
ここまで、越後系、讃岐系、外様衆系が系譜関係を検討すべき系統として残った訳だが、外様衆系の名乗りが右馬助/右馬頭であることに注目すれば、越後系桃井右馬助との共通性は明らかであろう。よって外様衆系と越後系が同系であり、京都外様衆であった桃井氏が越後へ定着した可能性が浮上する。
森田氏(*3)は『康富記』の記述に康正元年4月「上杉・今川・桃井」が関東へ下向したとあることを踏まえて、これを桃井讃岐守と推測している。さらに同氏は「このとき下向した桃井氏は、京都幕府の外様衆或いは奉公衆の系譜を引く人物の可能性がある。」とも言及している。よって、外様衆系と越後系の中間として讃井守系が位置づけられることが推定される。
年次の整合性を確認する。まず、外様衆系の京都での終見が長享年間であり、越後系の初見は享禄年間だから全く矛盾しない。さらに、讃岐守系を見ると初見が文明年間で終見が永正年間である。外様衆系と越後衆の間を埋めるように讃岐守系が所見されることがわかる。享徳の乱の終結が文明14年であるから、それを境に京都から関東を経て越後へこの三系統が移っていく印象である。
以上から三系統を同系と推測し、外様衆桃井氏が享徳の乱のために康正元年に関東へ下向、その後明応までに越後へ拠点を移し、最終的に長尾上杉氏家臣桃井氏となったと推測する。関東下向から越後定着という展開は八条上杉氏と同様である。
さてこれらを踏まえて人物を整理してみたい。まず、享徳の乱で活躍する桃井讃岐守が康正元年の下向だとすると、すると、上述の文安の番帳でみられる右馬助と寛正年間の二つの番帳に記載された桃井右馬頭は別人である。すなわち、右馬助が讃岐守の前身であろう。康正元年に成人している人物が永正中期まで活動するのは無理であろうから、明応・永正年間の桃井讃岐守は上記の讃岐守とは別人と見られ、寛正の番帳や、長享の番帳で見える桃井右馬頭の後身ではないか。
すなわち「讃岐守」は文安から文明に活動が見られる右馬助/讃岐守と、寛正から永正に活動が見られる右馬頭/讃岐守の二人と見る。
永正まで見られる桃井讃岐守の跡を継いだのは、享禄には受領名伊豆守で見える桃井義孝であろう。
(右馬助/讃岐守)-(右馬頭/讃岐守)-義孝(伊豆守)、という系譜関係が推測される。
讃岐守が京都より派遣された人物であるとすると、『松陰私語』において上杉氏らよりも前に位置する記載順の説明がつく。さらに、長尾景虎の活動期に桃井氏の家格が高いことが史料から読み取れるが、それも出身が京都外様衆であることに由来すると考えられる。
[史料1]『上越市史』別編1、3号
兄候弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外之間、遂上郡候。覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候。何様爰元於本意之上者、晴景成奏者成之可申候、恐々謹言、
十月十二日 平三景虎
村山与七郎殿
越後桃井氏が京都外様衆出身でありそれに由来して高い家格を誇っていたことを確認した上で[史料1]を見ると、長尾景虎の活動期における桃井氏の立場についても納得できるものがある。黒田秀忠の反乱や景虎の家督相続に際して、桃井氏の影響力も無視できるものではなかった、といえよう。
ここまでの検討を踏まえ、外様衆系桃井氏のち越後桃井氏の系譜を総合すると、
(右馬助/讃岐守)-(右馬頭/讃岐守)-義孝(伊豆守)-(清七郎/右馬助/伊豆守)-(宮内少輔)-(喜兵衛)
と推定される。
追記:2021/2/23
寛正期に所見される「桃井伊豆入道」について
『蔭涼軒日録』には寛正5年8月、「桃井伊豆入道」が富樫泰高と共に隠居したと記録されている。富樫氏は加賀守護で「国持外様」と呼ばれる地位にあり、この人物と併記された桃井伊豆入道も外様衆である可能性が考えられる。伊豆守は越後桃井氏の名乗りであるから、外様衆桃井氏が越後桃井氏の前身であることを示すさらなる根拠となりえる。
伊豆入道は寛正年間に入道し隠居しているから高齢であることが窺われる人物である。この人物が外様衆桃井氏であれば、同時期に享徳の乱に伴い関東へ出陣した桃井右馬助/讃岐守の先代にあたると推測されよう。
*1)享徳の乱に関する年時比定は、峰岸純夫氏『享徳の乱』(講談社選書メチエ)、『史料纂集古記録編 松陰私語』(八木書店)に従う。
*2)『松陰私語』は新田岩松氏の陣僧松陰によって記されているため、岩松氏の記述は差し引いて考える必要がある。
*3) 森田真一氏『上杉顕定』戒光祥出版
*4) 『越佐史料』三巻、375号
*5)『越佐史料』三巻、519頁
*6)木下聡氏「室町幕府外様衆の基礎的研究」、各番帳の年時比定もこれに従った。