前回は越後における桃井氏の系譜を検討し、享徳の乱以降関東や越後において桃井讃岐守の活動があり、その後は越後における桃井氏の活動が見られることを確認した(便宜的に越後系、讃岐守系と呼ぶ)。今回は越後以外における桃井氏の所見を辿ってみたい。
関東においては越後桃井氏とはまた違う活動を見せる桃井氏をみる。享徳の乱における所見である。『松陰私語』の記述の中で享徳4年三宮原合戦において山内上杉氏、越後上杉氏と交戦している武将に「新田、鳥山、桃井以下」と挙げている。さらに、岩松氏が古河足利方に寝返った後、文明9年岩松氏と鳥山氏の相論についての記述中に「畠山・桃井・田中」が出てくる。どちらも、古河足利方の武将であることから、一貫して上杉方としてみえる桃井讃岐守系統とも異なる桃井氏として見ることができよう。古河足利氏の家臣としての桃井氏が存在したと見られる。
永享12年年間に桃井左衛門督憲義が鎌倉公方足利氏の添状を発給していること(*1)などを見ると、それは一貫したものだということが理解できる。
関東を拠点とした一族と想定でき、関東系と呼んでおく。
関東系はその後所見されず、関東から没落したように思える。永禄4年に長尾景虎味方を書き連ねた『関東幕注文』にその名がないことは、それを裏づけるだろう。
さて、桃井氏は信濃国においても所見される。永禄4年5月には武田信玄により「桃井六郎次郎」が塩田城在城を命じられ、同時に内田、二子(共に松本市)を与えられている(*2)。永禄10年生島足島神社への起請文の中には、「桃井蔵人佐頼光」の名が見える(*3)。時期的に両者は同一人物であると見て良いのではないか。
天正6年6月には桃井綱千代が武田家朱印状(*4)によって知行を約束されている。文中に「就亡父先忠、以法性院殿直判、被相渡候本領」とあり、亡き父は信玄(法性院)の頃から武田氏に属していることがわかるから越後桃井氏とは関係がないことが明らかになる。また、父は信玄に本領を宛がわれる立場であるから、他国からの流入するなどした在地性の薄い存在であることが類推される。世代的にこの父は頼光ではないか。
これを信濃系と呼ぶ。
さて、ここに関東系と信濃系を検出したが、結論から言えば両者は同系であると推測される。
『文禄三年定納員数目録』(以下『目録』)には「上州惣社衆 長尾平太」の同心として「桃井蔵人」が現れる。上野国に縁があるならば関東系に分類すべきであるが、上述したように関東系は没落していたと考えられ、安易に系譜を繋げられない。
そこで、永禄10年の信濃系所見「桃井蔵人佐頼光」と『目録』中「桃井蔵人」の官途名の一致は示唆的である。信濃系は関東系は関東からの没落後の姿であると考えられ、二つの系統が同系であることが推測される。武田氏滅亡後、北信濃の武将は上杉氏に従うものが多いから『目録』の桃井蔵人は、桃井綱千代の後身であろう。上杉氏に帰属後、本来関東出身であることから惣社衆に組み込まれたのだろう。
先に綱千代の父すなわち頼光が信玄から本領を宛がわれた事実をみたが、それは頼光の代に亡命したからとは考えられないだろうか。そうだとすれば、永禄3年から4年にかけての長尾景虎関東越山が理由として最も有力であり、それは頼光が所領を宛がわれた時期と一致する。『目録』で上州惣社衆として存在するのも、信濃への移動がそこから近い世代において行われたことを示すのではないか。
ここで、関東系桃井氏の拠点を推測してみよう。享徳の乱において関東系桃井氏が上杉軍と交戦した三宮原は現吉岡町、その後楯籠もった「高谷城」は高井城と推定され現前橋市に位置する。『目録』で関東桃井氏が所属する惣社衆も現前橋市惣社に由来している。現吉岡町には桃井城(地名から大藪城とも)の跡地が確認され、桃井氏の城という所伝がある。ちなみに、『日本城郭大系』は桃井氏の城としながら、築城年代を文明年間と推定し所伝にある桃井直常の関与には否定的である。
森田真一氏の著書『上杉顕定』(戒光祥出版)から引用すれば、「桃井氏は、鎌倉期から本貫地の上野国群馬郡桃井郷(榛東村)において確認されており(往古過去帳など)、その後の南北朝~室町期にかけては多くの系統に分かれ、鎌倉府の重臣、あるいは室町幕府の奉公衆・外様衆として活躍していた。」とされる。榛東村と吉岡町は隣接する自治体であり、関東桃井氏が桃井城を拠点として桃井郷を支配していたと考えられる。
以上のように、現在の吉岡町、前橋市に桃井氏が存在した徴証が複数ある。上州桃井城を関東系桃井氏の拠点として推測することができる。
ここまで、鎌倉/古河公方家臣出身の関東系桃井氏が永禄3・4年の長尾景虎関東越山に従わず武田信玄の元へ逃れ信濃で活動するようになったこと、武田氏滅亡後は上杉景勝に従い関東と関係の深い立場を与えられたと捉えられることから、関東系と信濃系は同系であると推測した。人物として、永禄期に活動した頼光(六郎次郎/蔵人丞)と天正期の活動が見られるその子某(綱千代/蔵人)を検出した。
さらに、京都においても桃井氏は存在する。文明12~13年成立と見られる『永享以来御番帳』において「二番番頭 桃井治部少輔入道常欽」を見る。時代は下って、明応元年もしくは翌年初頭の成立とみられる『東山殿時代大名外様附』(*5)の奉公衆の記載中に二番衆番頭として「桃井民部少輔」、続いて「同右京亮」が見られる。
二番衆の番頭という共通性から、奉公衆桃井氏が存在したと見られる。奉公衆系と呼ぼう。
延徳元年頃にも「桃井治部少輔」が所見され(大館尚氏書状案)、木下聡氏(*6)によれば足利義稙方として足利義澄方と交戦しているという。さらに、大永2年7月の本書を写したという安富元盛武家書札礼写(*7)に「番頭之衆」の内に「二番 桃井左京亮殿」が見られる。よって、奉公衆系が京都における一貫した系統であることが推測される。
ここまで、越後系、讃岐守系の他に関東系、信濃系、奉公衆系を提示、関東系と信濃系が同系であり、奉公衆系が一貫した系統であることを推測した。次回は、京都における外様衆としての桃井氏を確認した上で越後桃井氏のルーツを検討していきたい。
*1)『福島県史』資料編2、537頁
*2)『戦国遺文武田氏編』一巻、742号
*3)同上、二巻、1133号
*4)同上、四巻、2990号
*5)今谷明氏「『東山殿時代大名外様附』について」
*6)木下聡氏「室町幕府外様衆の基礎的研究」、各番帳の年時比定もこれに従った。
*7)『新潟県史』資料編3、833号
※10/25 奉公衆系桃井左京亮の所見について加筆。