越後毛利氏は鎌倉期から越後に所領を維持し、北条氏、安田氏、善根氏、南条氏に分岐、それぞれ戦国期にかけて活動が所見される。さらには、安芸国の毛利氏も同族である。しかし、その系譜関係は分かりにくい。今回は、その祖大江広元からどのように分岐していったかに焦点を当て、系譜関係を整理していきたい。
大江広元の子息は、出羽国寒河江氏の長男親広、武蔵国長井氏の二男時広、上野国那波氏の三男宗光、越後国毛利氏の四男経光らが有名である。
田村裕氏(*1)は、毛利安田氏の系譜を伝える越佐史料所収『毛利系図』が毛利安田氏の祖を那波氏に結びつけるものの実際は那波氏とは別系統の四男経光であり、その所伝を慶長5年に那波氏から安田氏へ養子俊広が入ったことによる誤伝であると指摘している。この他『毛利系図』は、安田景元が那波氏に寄寓したとする不自然な所伝を載せることを始め信頼性に欠ける部分が多々あり、注意が必要である。
大江広元の四男季光が相模国毛利庄を領有したことから毛利氏を名乗り、その初祖となる。季光とその一族の多くが宝治元年(1247)三浦の乱に与して没落するが、子息の一人経光のみ関与を免れて毛利氏所領の内、越後国佐橋庄と安芸国吉田庄の領有を許された。
文永7年(1270)7月毛利寂仏(経光)譲状(*2)によって、佐橋庄南条と安芸国吉田庄が毛利経光入道寂仏から息子四郎時親に譲与されている。河合正治氏(*3)は、妻が御内人長崎氏の娘であるために時親は庶子でありながら優遇されたと考察し、佐橋庄北条と惣領職は嫡男の基親に継承されたと推測している。
ここに基親の系統である惣領毛利北条氏が分岐する。弟時親の系統からはこの後善根、安田、南条、そして安芸毛利氏が分岐する。
1>毛利北条氏
北条を領有した基親の子が時元である。応安4年(1371)毛利宝乗(親衡)書状(*4)に「惣領毛利丹後守入道慈阿」と時元が表現されており、北条氏が惣領であることがわかる。
時元は応長元年(1311)に北条氏菩提寺専称寺を建立したことが文書(*5)にも残っている。
時元以降の系統が北条氏として続いていく。
2>安芸毛利氏、毛利南条氏
佐橋庄南条を領有した毛利時親以降の系統は、安芸国吉田庄も領していたことから、越後国と安芸国の双方で活動が見られる。既に時親において吉田庄への下向がなされていたようで、時親-貞親-親衡-元春と安芸吉田庄を中心に存続する。この吉田庄を拠点とする系統は後に戦国大名毛利元就を輩出する安芸毛利氏である。
では、佐橋庄南条に注目したい。毛利時親の次代において氏族が分かれていく過程が毛利元春事書案(*6)に詳しい。それによると、了禅=時親が一族へ南条を分割して譲与したという。具体的に言うと、時親の嫡孫親衡、その弟宮内少輔入道道幸、時親の庶子四郎親元、五郎広顕、毛利北条氏庶流で時親の甥経親の5人と推測されている。
康正3年には南条駿河守広信のものとされる専称寺宛寄進状(*7)が残っていることから、南条を分割譲与された者の内や、親衡の子でありながら嫡子元春とは別行動を取った弟匡時の系統といった所のいずれかが南条氏として活動していたと推測される。
『文禄三年定納員数目録』、『御家中諸士略系譜』などにおいて南条氏の人物が確認されることから戦国期から米沢藩に至るまで、南条氏として存続したことが確認される。
3>毛利安田氏
毛利南条氏と分岐し、戦国期へ発展を遂げるのが南条を分割譲与された一人である宮内少輔入道道幸の系統である。道幸は時親から継承した南条の石曽根を拠点に、鵜川庄安田条へ進出する。安田との関係性は永和4年(1378)足利義満御教書(*8)から判明する。この御教書は安田条の領有を巡り八条上杉満朝が幕府へ提訴したことが発端となったものであり、道幸の安田領有が実力=武力を行使してのものであったことが指摘されている(*1)。
道幸の子息として、嫡子元豊と庶子憲朝が検出される。安田道幸譲状(*9)と足利義満安堵状(*10)から、「憲朝」は「朝広」の改名後であることがわかっている(*1)。
応永14年(1407)毛利常全(憲朝/朝広)譲状(*11)において安田条を末子亀一丸(後の入道道元)に譲っている。よって、安田を領有したのは庶子憲朝の系統であったことがわかる。道幸は自らの所領の内、元豊に石曽根条を、憲朝に安田条をそれぞれ継承させたようだ。
この毛利道幸の庶子憲朝の系統が毛利安田氏として続いていく。
ちなみに、毛利安田氏の所領を巡る係争は文明期にも見られ、八条上杉氏の関与も認められる(*12)。入部当初の実力による安田条領有という前提が根本にあった可能性もあろう。さらに言えば、永正期における長尾為景の台頭は当時越後で影響力を増していた八条上杉氏との対立が原因であるから、毛利安田氏が一貫して守護代長尾氏に味方した理由として八条上杉氏など周辺領主との所領を巡る対立が基礎にあったとも見られよう。
また、上述の永和年間の係争において守護代長尾氏が毛利安田氏を擁護しており、毛利安田氏の成立時点で既に守護代長尾氏との関係が強化されていたとも言えよう。元々庶流であった毛利安田氏が守護代長尾氏の権力を背景に発展する様子が垣間見えよう。これは、庶流の領主が発展していく様子として貴重な一例であり、またその発達を庇護することで守護代長尾氏が守護上杉氏不在の国内で影響力を増していく流れもわかりやすく示してくれるといえる。
4>毛利善根氏(毛利石曽根氏)
道幸の嫡子元豊の系統を見ていく。
上述の毛利道幸譲状(*9)には「惣領」として「憲広」という人物が登場するが、田村氏(*1)はこれを元豊の前身と見る。すなわち、道幸の嫡子憲広=元豊が「惣領」として存在したことが明らかになる。この系統は毛利常全置文(*14)において「石曽根殿」と表現されていることから石曽根を拠点としたことが分かるという。
つまり、毛利氏の庶流道幸の嫡子元豊が毛利石曽根氏を形成したと言うことができる。
毛利常全文書(*14)にある「惣領」「石曽根殿」から石曽根氏が越後毛利氏惣領として捉えられることもあるが、惣領北条毛利氏が別系統として存在しており、あくまで道幸系毛利氏の惣領を指すと考えられる。毛利道幸の系統は戦国期に向けて発展したため誤解されがちであるが、道幸自身は毛利庶流であり石曽根氏、安田氏も毛利氏の惣領とは成り得ないことに留意が必要である。
そして、毛利石曽根氏については丸島和洋氏(*15)により毛利善根氏と同一であるという指摘がなされている。戦国期に所見される善根氏のルーツが明らかになると言えよう。
善根氏については系譜関係や天文末期の反乱など検討するべき点が多いため、また別に検討してみたいと思う。
以上、北条氏、安田氏、善根氏、南条氏、安芸毛利氏の分岐を中心にその系譜関係を整理した。
*1) 田村裕氏「鎌倉後期・南北朝期における越後毛利氏と安芸毛利氏-毛利安田氏の成立を中心として-」『新潟史学』57号
*2) 『越佐史料』2巻、19頁
*3) 河合正治氏『安芸毛利一族』吉川弘文館
*4)『大日本古文書』毛利家文書一、17頁
*5) 『新潟県史』資料編4、2291号
*6) 『越佐史料』2巻、321号
*7) 『新潟県史』資料編4、2295号
*8) 『新潟県史』資料編3、1009号
*9)『新潟県史』資料編4、1530号
*10)同上、1531号
*11)同上、1536号
*12)同上、1550-1551号
*13)同上、1537号
*14)丸島和洋氏「上杉氏における国衆の譜代化」(『戦国時代の大名と国衆』戒光祥出版)
21/4/16「守護代長尾景春」という表現を「守護代長尾氏」に改めた。
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