上杉謙信の重臣として山吉豊守が有名であるが、山吉氏についての系譜は不鮮明である。系図としては元禄16年(1703)成立(*1)の『越後三条山吉家伝記之写』が最も古いが、詳しい記述が載るのは「政久」以降の当主からである。文書類を始めとする諸史料を検討して、山吉氏の系譜関係を整理してみたいと思う。
山吉氏初見は応永29年(1422)山吉行盛免許状(*2)である。次いで、応永31年から久盛が見える。行盛と久盛の関係は不明である。
[史料1]『新潟県史』資料編5、2687号
当寺之事、任亡父久盛判形之旨、諸役等事、不嫌甲乙人等令停止之、但三ヶ条之人躰出来之時者、科人計渡給、家財已下之事者、可為御計者也、仍件如、
永正八年九月十七日 正盛
本成寺
[史料1]は山吉正盛発給の本成寺宛安堵状である。「亡父久盛」とあり、父が山吉久盛であるとわかる。しかし、山吉大炊助久盛の発給文書が確認できるのは応永31年(1424)(*2)から文安3年(1446)(*3)であり、その後の山吉氏の所見明応元年(1492)(*4)とは半世紀の開きがある。ちなみに、本成寺文書は「不慮之焼失」により「鼻紙程度モ不残」(*5)と言われるように天文年間や永禄年間に文書群の焼亡が想定され、『新潟県史』も「本文書群は、後年の蒐集書写かどうかも含めてなお検討を要する。2665号~82号は紙質・筆跡の似る者が多い。」としている。そういった関係で史料残存にも偏りがあるのかもしれない。
正盛は永正7年(1510)9月の長寿院妙寿書状(*6)中にその名が見られるから永正年間の生存は確かであり、山吉久盛も中条秀叟記録(*7)に応永33年の項に見え応永年間に活動していたことは正しいとわかる。父久盛の活動時期や永正年間には山吉能盛や山吉孫五郎といった人物も活動していたことから正盛は高齢であったと考えられる。久盛の初見時20歳だとして1450年頃久盛40歳程度で正盛誕生とすると永正8年には正盛60歳程度となり、久盛と正盛の父子関係は成立する。世代間が離れているため山吉久盛という同名別人が存在した可能性もあるが、花押型について山吉久盛発給の応永31年(1424)段銭請取状(*2)と文安元年(1444)打渡状(*8)の花押を比べるとほぼ同じであり、残存史料からは山吉久盛は一人と捉えられる。
冗長になったが、山吉久盛と正盛の父子関係を肯定する。
[史料1]に「三ヶ条之人躰出来之時者」とあるように正盛は大犯三ヶ条に対する検断権を持つ蒲原郡郡司であったことがわかる。また、文亀3年長尾能景が山吉四郎右兵衛尉へ書状(*9)を発給していることから、正盛は四郎右兵衛尉を名乗ったと考えられる。四郎右兵衛を後述する正綱に比定する向きもあるが、この書状は水原氏の「知行分不入」や「済物多少相論」などから蒲原郡司の職に由来するとされ(*10)、郡司であった正盛に宛てられたものと考えている(*11)。
明応元年には山吉四郎右兵衛門尉宛長尾能景証文(*12)を受けて、弥彦神社へ山吉正綱打渡状(*13)が発給される。『三条市史』は江戸時代の作成の写しと推定し、さらに『新潟県史』は改元が反映されていないことから「検討を要する」としている。正綱に関しても他に所見がなく、或いは正盛の誤りであろうか。ただ花押型は正盛と異なっており、正盛から偏諱を受けた一族であろうか。
次回は、正盛の次代能盛から検討する。
*1)現存する写本の成立が元禄16年であり、原本の成立はさらに遡る。
*2)『新潟県史』資料編4、1813号
*3)『新潟県史』資料編5、2683号
*4)同上、2882号
*5)同上、2700号
*6)『越佐史料』三巻、559頁
*7)『新潟県史』資料編4、1316号
*8) 『新潟県史』資料編5、2669号
*9)『越佐史料』三巻、451頁
*10)中野豈任氏「越後上杉氏の郡司郡司不入地について」(『越後上杉氏の研究』吉川弘文館)
*11)正綱が久盛・正盛父子の間に郡司として存在した可能性は、正綱が正盛の偏諱を受けていることから考えづらい。
*12)『新潟県史』資料編5、2882号
*13)同上、2883号
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