越後毛利氏の一族、善根氏は同族の北条氏、安田氏に比べて史料的に恵まれないことなどから、その存在は難解である。しかし、少ないと史料と諸研究を元に推測を重ねると成立から滅亡までの展開を素描することが可能である。ここで毛利善根氏について検討したい。
1>善根氏の成立
前回、毛利氏の分流について検討しそこで田村裕氏(*1)の研究を参考に毛利石曽根氏は毛利道幸の嫡子元豊から発祥したことを確認した。そして石曽根氏は丸島和洋氏(*2)によって、善根氏と同一であるという指摘がなされている。
同氏は、延徳3年(1491)上杉房定一門・被官交名(*3)に「善根 毛利左近将監大江定広」と「北条 毛利弥五郎輔広」が並び、左近の名乗りが輔広に継承されることなどから、輔広を毛利善根定広の実子で北条氏へ養子入りした存在と推測する。
その上で専称寺『当寺旧記本山書上控』に北条高広の父を「大沢殿」とする所伝に注目、関久氏が地理的関係から「大沢殿」=石曽根氏と推測したことを参考に、輔広が石曽根氏出身であると推定し、石曽根氏=善根氏である、と導いている。
これらの点については、[史料1]からも示唆される。
[史料1]『新潟県史』資料編4、2280号
奉造立八幡宮
夫当社神霊者□□□□八幡大菩薩□□□大江朝臣広元公、辱建立宝殿、安置神霊矣、其後永和年中、毛利宮内少輔沙弥道幸、敬神守祖、再修造之畢、然有時而既及大破、広元公以降、屈指考之三百年也、予亦其苗裔、而不可不加修理、因茲抽丹精、仰冥慮、謹奉造宮者也、
北条十一代孫葉毛利弥五郎大江高広判
天文十九年龍集庚戌八月五日
造宮奉行 武藤源右衛門尉
大工三郎兵衛尉
[史料1]は毛利北条高広が北条八幡宮を再建したことを伝える棟札写である。この中で、毛利道幸が以前修造したことに触れている点が注目である。道幸の長男は毛利善根氏、二男は毛利安田氏の祖である。従って、発給者北条高広の毛利北条氏とは関係がない。
しかし、丸島氏の高広の父北条輔広が毛利善根氏の出身であるとする推論を踏まえると高広自身は毛利善根氏との血縁関係を有しており、道幸との関係性が表出する。
よって、輔広が善根氏から北条氏へ入嗣した蓋然性は高く、善根氏は毛利道幸を祖とする系統であったことが示されるのである。
2>善根浄広と周広
関久氏(*4)は所伝や浄広寺、周広院なる寺院の存在から善根毛利氏として「浄広」、「周広」の存在を推測している。浄広寺、周広院の由緒を元にして、関氏は浄広が文明期、周広が天文期に活動したと推測する。ただ寺社の由緒は正確性に欠くことが多く、浄広と周広なる人物の存在は示唆されるものの、所伝から活動時期を判断することはできない。
彼らの所伝の主体は北条氏に攻め滅ぼされる内容であるから、後述する文安期の抗争との関連が濃厚であり、文安以前の人物と推測される。
善根毛利氏の祖である元豊の活動時期から文安3年までは半世紀程度の間があり、元豊の後代として文安期までに浄広、周広の二代が存在したことは十分考えられる。
3>文安3年「佐橋之刑部少輔退治」と善根氏
前述したように、善根氏が北条氏によって攻め滅ぼされたという所伝が存在する。所伝の信頼度は高くはないものの、複数において示唆されるようならば見過ごせない。
丸島氏も、北条氏が善根氏を滅ぼし一門を入部させることにより北条氏系善根氏が形成され、善根氏から北条氏への入嗣も可能になったと推測している。関氏は『刈羽郡旧蹟誌』にある清瀧寺縁起に「佐橋氏周広」が永享年間に敗亡したとあることを踏まえ、『専称寺過去帳』には同時期の北条氏当主、長広が「鯖石殿」と記されており、善根氏がこの頃に北条氏に包摂されたことを示唆するものであるという。
これらの主張を踏まえた上で、享徳3年に和田中条房資入道秀叟が記した中条秀叟記録(*5)を見てみたい。その一項には「上杉民部少輔房朝文安三年丙寅下国而、佐橋之刑部少輔退治」と記されており、文安3年に毛利一族の人物が成敗されたことがわかる。
この「佐橋刑部少輔」こそが、上記で推測された滅ぼされた系統であり、「退治」されたことにより北条氏の流れを汲む人物が跡を継承したのではないか。
善根氏の呼び名として度々「鯖石殿」といった表現が見られており、現在は「サバイシ」と読むようだが、当時は「サバシ」と読んでいたと思われる(*6)。すると、『江氏家譜』において「佐橋ハ、今ノ鯖石タルヘキトノ儀、文字替リタルニテ可有之乎」と述べられているように、鯖石は佐橋の転訛であり、二つは同義であることが推測される。
文安という時期も所伝にある永享に近く、その他の点も矛盾はない。佐橋庄から遠く離れた奥山庄の中条氏まで記録する出来事であったから「佐橋刑部少輔」の成敗は当時の越後において一大事件であったことが窺える。善根氏程度の大領主であればそれも頷ける。
よって、「佐橋刑部少輔」は「鯖石殿」と呼ばれる善根氏の系統である可能性が高い。そして、文安3年善根氏征伐によって刑部少輔が滅ぼされ、それを期に北条氏の流れを汲む善根氏が成立したと言える。
4>毛利一族と越後の政治権力との関係
さらに文安3年の善根氏征伐について掘り下げて考えると、守護上杉氏の介入が気になる点である。
刑部少輔が滅ぼされた3年後、宝徳2年に守護上杉房定と守護代長尾邦景・実景父子と対立し、房定が父子を没落させている。すなわち、守護上杉氏陣営と守護代長尾氏陣営での対立が想定されるのである。
上杉氏が善根毛利刑部少輔を滅ぼしたわけであるから、北条氏出身の人物が跡を継承することも上杉氏の意向に添うものであったことは間違いない。つまり、本来の毛利善根氏は反上杉派であり、毛利北条氏は親上杉派に分けられることとなる。
ここで、善根毛利氏に親しい系統の毛利安田氏は守護代長尾氏の庇護の元に勢力を拡大していたことを思い出したい。つまり、親守護代長尾派と呼べよう。安田氏と近い系統である善根氏もその陣営であったことが推測され、反上杉派=親守護代長尾派であることがわかる。
つまり、守護代長尾氏をバックに勢力を維持してきた毛利善根氏、安田氏と、守護上杉氏と結んだ毛利北条氏に二極化していたと言える。庶流である善根・安田氏が在国することで影響力を高めた長尾氏に与し、庶流の勃興を抑制したい惣領北条氏が正統な権力者である上杉氏に付くことは自然な流れではある。
そして、守護上杉氏の権力強化の結果、善根氏の刑部少輔が滅ぼされ、北条氏に包摂されたことで親上杉氏陣営へ取り込まれたとみられる。
この文安期からの安田=守護代長尾氏、善根・北条=守護上杉氏という構図は、重要である。というのも、この構図は様々な変遷がありながらも長尾景虎の登場する天文期まで維持されたと思われるからである。
永正期において長尾為景は守護権力と対立するに至る。永正5年長尾為景書状(*7)に「北条事、今明日中可為落居候」と為景が北条城を攻めていることが見えるから、北条氏が守護代長尾氏と守護上杉氏の対立に及び上杉氏についた可能性がある。一方同じ頃安田氏は、「毛利新左衛門尉」が長尾方として奥郡まで進軍して色部氏と交戦している(*8)。
また、「善根之一儀」(*9)と呼ばれた天文24年の反乱は善根氏が反乱主体と推測され、この構図で説明がつく。つまり、この抗争においても守護代長尾氏派の安田氏に対して守護上杉氏派の善根氏に分かれるのである。北条氏の動向は必ずしも鮮明ではないが、安田氏のように長尾氏に対する積極的な動きは見えない。
そして、善根氏は永禄4年上杉政虎条目(*10)に給人たちへの替地として蔵田五郎左衛門尉の管理する300貫、不要な闕所、そして「善根分」が挙げられており、善根氏の所領が没収されていることがわかる。この後、善根氏の所見がないことからもこの時までに滅亡した可能性が高い。その契機は、やはり天文24年の反乱ではないか。
天文24年の反乱を経て、永禄初期から北条高広が文書の署判者として見えるようになる。つまり、守護代長尾氏権力に取り込まれたことを意味する。越後毛利氏にとって、この反乱は大きな転換点であったと考えられる。
この反乱と善根氏の滅亡については、北条氏と安田氏の動向も含めながらまた別に検討してみたい。
*1) 田村裕氏「鎌倉後期・南北朝期における越後毛利氏と安芸毛利氏-毛利安田氏の成立を中心として-」『新潟史学』57号
*2)丸島和洋氏「上杉氏における国衆の譜代化」(『戦国時代の大名と国衆』戒光祥出版)
*3) 「正智院文書」、(*1)に掲載あり
*4) 関久氏『大江・毛利の一族』
*5) 『新潟県史』資料編4、1316号
*6)『江氏家譜』中において、「鯖石」に「サバシ」という読みが付されている。
*7)『新潟県史』資料編4、1492号
*8)同上、1426号。「毛利新左衛門尉」は系図類にその名を見ないが、丸島氏(*1)によって毛利安田氏に比定された人物である。
*9)同上、1571号
*10)『上越市史』別編1、291号
※21/5/9 安田=守護代長尾氏、善根・北条=守護上杉氏という構図は、結果的に天文期にも見られるものと推測したが、安田氏の立場も様々な変転を経ている可能性もあり、本文中の断定的な表現を変更した。特に、上杉房定期には『新撰菟玖波集』に安田重広が守護近臣上杉房実、市川憲輔らと共にその名が見えることから、むしろ守護上杉氏と近い関係にあったと推定できる。房定期には安田氏内部で反抗的な毛利宮内少輔を討伐するなど安田氏の上杉氏への接近が顕著であり、その後長尾為景の後ろ盾を得た庶流安田景元が継承するに至り再び長尾氏との関係を強くしたと推測されよう。
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