鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

天文24年善根の乱と毛利善根氏

2021-04-30 22:10:31 | 毛利氏
天文24年2月、長尾景虎は越後国善根における反乱を鎮圧しているが、この反乱に関しては史料的制約からその反乱主体すら判然としない。従来の通説では、甲斐武田氏と通じた北条高広の反乱であるとするのが一般的である。しかし、この説の根拠とされてきた武田信玄書状は天文24年のものではないことが明らかにされており、そう単純ではなさそうである。確かなことを言えば、天文24年の乱の詳細は不明と言わざるを得ない。

なお、史料上「善根之一儀」と表わされていることから、善根の乱と呼称したい。

この乱に前後して、善根を領する毛利善根氏が史料上から姿を消す。反乱と善根氏の関係は無視できない。従来の説では善根毛利氏の存在を軽視している感がある。

そのため今回は、北条氏、善根氏、安田氏といった各毛利一族の動向に注目しながらこの「善根の乱」を検討したい。また、この時期長尾景虎は宗心を名乗っているが、便宜上景虎で通す。


1>反乱に関する確実な史料
ます、少ない史料の中でも確実なものからこの反乱を整理する。


[史料1]『新潟県史』資料編4、1568号
此間者直江与兵衛尉所へ御懇切被仰越候、本望至極候、然者、柿中上条ニ在陣候、従此方一両輩立置候、上条・琵琶嶋其外被加御意見、動之儀可然様頼入存候、其口之様節々御注進簡要候、恐々謹言、
                        長尾入道
  正月十四日                     宗心
  毛利越中守殿御宿所

[史料1]は、この反乱の勃発を伝えるものである。具体的には、安田景元が反乱について直江実綱に報告し、それにより柿崎氏、上条氏、琵琶嶋氏らが出陣し合戦の準備を行っていたことがわかる。「其口之様節々御注進」や「此方一両輩立置」から、この時景虎は春日山城にいた。


[史料1]『新潟県史』資料編4、1571号
 起請文事
右、今度善根之一儀付而、不図此口被致出陣候処、御骨肉ニ被参、御代々御筋目雖勿論候、無二宗心前可有御馳走以御覚悟、最前ニ被仰合候、誠以御頼母敷大慶ニ被存候、然上者、宗心も向後少も不可被存疎意候、自然、号間之宿意、従何方いか躰之申懸候共、景元御父子御事、善悪ニ見放申間敷由、深被存置候、雖如斯候、従御前被対世間、於被求事者、不可有其曲候、弥以互ニ不可有御別儀候、(以下罰文)
 天文廿四年    大熊備前守
二月三日           朝秀
          直江与兵衛尉
               実綱
          本庄新左衛門入道
               宗緩
  安田越州 参

[史料2]には天文24年初めに、「善根之一儀」によって出陣が余儀なくされたことが記され、その際安田景元が長尾宗心=景虎に味方したことがわかる。

「此口出陣」の上で景元が「宗心前可有御馳走」とあることから、善根周辺へ景虎と大熊、直江、本庄らが出陣してきていたことが推測される。[史料3]で安田景元へ「在陣中種々御懇意」を感謝しているから、景虎自身の出陣は確実である。


さらに、「御骨肉ニ被参」とあることから反乱主体は安田氏の同族、すなわち毛利一族であったことがわかる。恐らく、敵が同族であるため景元が景虎側から疑心を持たれる可能性を危惧し、自身の忠誠を誓うと共に、保証として景虎側からも誓書を発給してもらった、という流れであろう。

このように[史料2]の「善根」の地における抗争であり、毛利一族の関与を示唆することから、反乱主体は毛利善根氏であった可能性がある。従来、「御骨肉」は北条高広と捉えられる場合が多いが、「善根之一儀」と明言されており、善根氏との関係をより優先して考えるべきだろう。


[史料3]『新潟県史』資料編4、1569
就今度之一儀、従最前別而御加世儀、誠御頼敷本望不過之候、殊更在陣中種々御懇意、難謝之計候、此等之儀、何様態以使者可申宣候、其迄遅々無沙汰様候間、先以脚力令啓候、万々期来信候、恐々謹言
                         長尾入道
   二月十三日                     宗心
   毛利越中守殿御宿所

[史料3]は同月に、景虎から安田景元へ出された文書である。「在陣中種々御懇意」への謝意を「脚力」を以て伝えていることから、この時点で景虎は春日山城へ帰陣していたのではないか。よって、1月に勃発した反乱は2月初旬の内に鎮圧されたことがわかる。


2>善根氏に関する確実な史料
さて、善根の乱について善根氏の関与が濃厚であることを推測したが、反乱における具体的な動向は上記の史料からは読み取れない。天文24年前後の史料から、善根氏の動向を確認したい。


[史料4]『上越市史』別編1、291号
一、上田、越前守ニ依可返、上田之給人衆替地、蔵田刷之内刷すへき所三百貫ほと見はからい、しるし越可申事、
  付、ぜごん分の地も又いらさるけつ所同前ニしるし可越事
(中略)
  拾月十三日           (花押)
    萩原伊賀守殿
    蔵田五郎左衛門尉殿
    直江大和守殿

[史料4]は永禄4年に上杉政虎(長尾景虎)が発給した覚書である。上田の土地を長尾政景に返還することになり、その地の家臣たちへ宛がう替地を用意するように命じている。その替地は、蔵田氏の管理する三百貫に加え、「善根分の地」が挙げられている。善根氏の所領を意味することは疑いない。「要らざる闕所同前ニ記し」とあることから、この時善根氏の所領は没収されていたことが見て取れる。

さらに、これ以降善根氏は史料上所見されなくなる。

このことから、永禄4年までに善根氏が滅亡していたことが推測されるのである。善根氏が天文24年の反乱に関与し、その数年後には没落していることを踏まえると、やはり善根氏が反乱主体であり、その結果没落したと見るのが自然である。


[史料5]『新潟県史』資料編5、3279号
 かミへ御こうらんのかた
えちせん殿
かき崎平二郎殿
とゆたうミとのへ
一、せこん、やすた、しハ助二郎さいふさせへき事か、
一、小四郎にあせんえんかの事、

[史料5]は年不詳の条書である。一項目に「善根、安田、新発田助二郎在府させべき事か」とあり、善根氏らの在府が計画されている。

二項目にある長尾小四郎の縁組についての条項は、また別の年不詳条書(*1)と重複している。そちらの条書は北条高広、齋藤朝信、長尾藤景、柿崎景家の判形発給について言及されていることから、彼らが文書の発給を始める永禄初期前後のものと見られる。そのため、[史料5]も永禄初期のものである可能性がある。

すると、永禄初期頃まで善根氏が活動していたことが推測される。天文24年の反乱以降にも善根氏が存続した可能性がある。


確実なことは不明と言わざるを得ないが、私なりに解釈すれば、天文24年に反乱した善根氏は鎮圧後、永禄初期まで漸進的に解体されたと推測する。

その理由として、天文24年善根の乱時に景虎としても善根氏を武力で攻め滅ぼすまでに至らなかったことが挙げられる。善根氏は数千貫規模の伝統的領主であり、その拠点と想定される善根城も八石山の一角に位置する比高400m程の堅固な城郭である。後年の本庄繁長の乱でもわかるように、そういった領主層との武力抗争は簡単ではない。つまり、勃発から1ヶ月程度で鎮圧された善根の乱において、善根氏側も徹底抗戦を選ばず、景虎側の圧力によって降伏するに至ったのではないか。

その上で、天文24年以降も存続したものの、永禄初期までに解体されその所領が没収されたと見られる。解体がなされた背景には、当主の死去や政治的に不安定であった弘治年間における景虎権力への反抗といったことが考えられる。


以前、善根氏の系譜を検討した際に、善根氏は守護上杉氏に近い政治的立場にあったことを推定したが、これは天文末期から弘治年間の越後情勢と関係が深い。大熊朝秀の反乱に代表されるように、この頃は長尾景虎に近い勢力と旧上杉氏勢力の衝突が見られる。善根氏の反乱もこういった背景があったのではないか。



善根の乱と善根氏の動向を考えると、以上のように考えられる。

史料から明かな点もあるが、善根氏については特に推測の多い内容になってしまったかもしれない。ひとつの仮説として提示しておきたい。

次回は、この反乱と北条氏との関係を中心に検討する。


*1)『新潟県史』資料編5、3280号


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