戦国期越後国刈羽郡鵜川庄上条には、上条上杉氏の一系統が存在する。以前、古志上条上杉氏の系譜を検討し上条上杉氏の祖である清方の子の代にそれぞれ古志郡と刈羽郡を拠点とする二系統に分岐したことを確認した。今回は刈羽郡の上条上杉氏について検討する。便宜的に刈羽上条氏と呼びたい。また、古志上条上杉氏については当ブログ「古志上条上杉氏の系譜」を参考にしてもらいたい。
まず、上条氏の祖である清方については黒田基樹氏の研究に詳しい(*1)。それに拠ると、越後守護上杉房方の子として応永20年(1413)頃に出生、正長2年(1429)に「上杉十郎方」として初見される。永享9年(1437)に兵庫頭に補任される。そして、永享12年(1439)に兄憲実の隠遁に伴い山内上杉氏当主と関東管領職を継承した。文安元年(1444)8月までには死去したという。
清方の死後、長禄4年には享徳の乱に伴う上州羽継原合戦に対する足利義政御内書の一つが「上杉播磨守とのへ」に宛てられている(*2)。森田真一氏(*3)はこの播磨守を『上杉系図 浅羽本』等に見える清方長男「兵庫頭 定顕」に比定し、弟淡路守房実とは別系統の上条氏として活動したと推測している。
ただ、森田氏の研究ではこの「定顕」を古志上条氏の上条定明と混同してしまいその後の系譜は混乱している。定明は天文3年死去(『越後過去名簿』)であるから「播磨入道」とは活動時期が離れており、また「定明」は死去時まで十郎を名乗ったから、二人が別人であることは確実である。すなわち、文安期から明応期まで刈羽上条氏として「播磨守定顕」が存在したといえる。実名については文書等で見えず確実ではないが、諸系図の記載「定顕」を尊重しておく。
明応5年閏8月には足利義材御内書で「上杉播磨入道」へ上洛について感謝が伝えられている(*4)。明応5年当時足利義材は将軍職を追われ越中へ亡命していた。「上洛」は義材の復権に関するものかもしれない。家永尊嗣氏は(*5)は越中における足利義材権力との関係から、「播磨入道」が守護上杉房能体制の中でも政治中枢に近い立場にあったと推測している。
定顕の次代が、永正7年6月に「上条弥五郎」として初見される定憲である(*6)。定憲は憲定、定兼とも名乗るが、便宜的に一貫して定憲と表記する。
定憲の出自は不明確である。当初、系図類の記載により定憲と古志上条氏の安夜叉丸が同一人物とされた上に安夜叉丸の父朴峯が山内上杉顕定(法名「告峯」)と混同されたため、定憲は顕定の実子と見られていた。しかし、系図類の記載に混同があることが理解され、『越後過去名簿』の出現で安夜叉丸や朴峯の存在も明かとなったことで、その根拠は失われた。
現在、定憲の出自に関する徴証は”母”と”花押”の二点である。まず、『越後過去名簿』に「芳雲寺殿 上杉ハリマ守御母花芳公 上条」が大永4年5月に供養されていることから、その母の戒名と没年、上条に居住していたことがわかっている。そして、定憲の花押型は上杉房定、顕定父子に酷似しており、血縁である可能性が想定されている(*3)。
可能性としては、順当に定顕の子息である説、本当に山内上杉顕定の実子であった説の二つであろうか。前者は、房定の甥にあたり血縁関係も花押型の示すものにも矛盾はない。現時点で最も自然な説であろう。後者は現在では花押型の他に根拠はなく、それを伝える所伝も他の事柄で誤伝として説明できる。ただ否定できる材料もなく、古志上条上杉氏には顕定の養子憲明が入嗣した可能性があることや定憲の政治的立場が山内上杉氏寄りであることから、完全に除外もできないか。定憲の母は確実であるため、顕定の妻について情報があればはっきりするかもしれない。
さて、次に定憲の名乗りの変遷を確認する。永正11年には「藤原憲定」と署名がある(*7)。当初は「憲定」であったのだろうか。そうであれば、この辺も山内上杉氏ゆかりの「憲」字を冠していたことになり山内上杉氏と関係が深いことに由来するかもしれない。
享禄3年に比定される書状(*8)に「播磨守定憲」と署名があり、受領名播磨守を名乗っていることが分かる。そして、天文4年6月までに実名「定兼」に改めている(*9)。文中は定憲で統一する。
また、永正期の上条兵部を定憲とする説もあるが、私は古志上条上杉定俊と推測している。
定憲は『越後過去名簿』に「常泰泰林永安 上杉ハリマ守」として記載され、天文5年4月23日の死去が確認される。当時、天文の乱として長尾為景と抗争の最中であった。戦死や戦病死の可能性も考えられよう。少なくとも定憲の死去が天文の乱の終結に繋がったことは間違いない。
定憲の次代を考える。
[史料1]『越佐史料』三巻、776頁
御書忝存候、如御諚当地落居不可有程候、弥五郎事爰元難儀之上出可申之由、可有披露候、恐々謹言、
十一月九日 播磨守 定憲
計見四郎右衛門尉殿
[史料1]は享禄3年に比定される上条定憲発給の文書である。署名からこの時定憲は播磨守を名乗っているから、文中にある「弥五郎」はその子息と推測されている(*11)。すると、定憲の次代はこの「弥五郎」であろうか。後代の上条政繁や義春が仮名弥五郎を名乗っていることを踏まえると、この人物が定憲の次代として存在したのではないか。
天文24年長尾景虎書状(*12)において「上条・琵琶嶋其外被加御意見、動之儀可然頼入存候」と安田景元へ上条氏、琵琶嶋氏への助言を依頼している。『越後平定以下太刀祝儀次第之写』には永禄2年に「上条入道」が見える。「弥五郎」の晩年の可能性があろう。
弥五郎の実名は不明である。『系図纂要』などで能登畠山氏から養子を取った「上条山城守定春」なる人物が記載されるが、確実な史料には見えない。同系図においても「定春」の父を守護上杉定実とし、その上流を八条上杉氏と接続するなど混乱がみられるから、その存在をそのまま信じることはできない。「定春」という実名は上条氏由来の「定」字に上条義春から一字を取った名前で、後世の創作である感は拭えない。
弥五郎の後代は、能登畠山氏出身の政繁、同じく能登畠山氏出身の義春、と続いていく。この二人についてはまた次回以降に詳しく検討したい。
ここまで、刈羽上条氏として
清方(十郎/兵庫頭)-定顕(兵庫頭/播磨守)-憲定/定憲/定兼(弥五郎/播磨守)-(弥五郎)=政繁/冝順(弥五郎/山城守カ)=義春/入庵宗波(次郎/弥五郎/民部少輔)
という系譜を確認した。
*1)黒田基樹氏「上杉清方の基礎的研究」(『関東管領上杉氏』戒光祥出版)
*2)『越佐史料』3巻、104頁
*3)森田真一氏「上条家と享禄・天文の乱」「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*4)『越佐史料』3巻、400頁
*5)家永尊嗣氏「足利義材の北陸滞在の影響」(『加能史料戦国Ⅱ』)
*6)『越佐史料』3巻、541頁
*7) 『新潟県史』資料編5、3212号
*8) 『新潟県史』資料編3、577号
*9) 『越佐史料』3巻、812頁
*10)乃至政彦氏『上杉謙信の夢と野望』KKベストセラーズ
*11) 池享氏・矢田俊文氏『上杉年表増補改訂版』高志書院
*12) 『新潟県史』資料編4、1568号
※2023/8/23 三分一原合戦に関する部分について修正した。
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