以前に上条上杉氏の系譜を検討し、上条政繁とその養子義春についても確認した。ただ、共に能登畠山氏出身と推測されることから、能登畠山氏における立場を考証することは欠かせない。特に、義春は畠山義隆を父にとして系図や所伝等では能登畠山氏当主として語られることもあり、能登畠山氏時代の存在形態は見過ごせない。今回は、義隆・義春父子について二人の能登畠山氏における立場を考えたい。
<1>畠山義隆と二本松畠山氏
まず、瀬戸薫氏による研究(*1)において畠山義隆は嫡流ではなく、庶流二本松畠山氏であったことが指摘されている。
これに拠れば、天正5年12月上杉謙信書状(*3)から義隆がこの時点で妻子がいる年齢であるとわかることから、『長家家譜』において能登から追放された「畠山義則」の跡を継ぐも天正2年に毒殺される「畠山義隆」は実際の義隆ではなく、追放された畠山義綱=「義則」の跡を継いでいた畠山義慶のことを表わしているという。「義則(ヨシノリ)」=義綱、「義隆」=義慶(ヨシノリ)であるから、所伝の名前が史実の名前に一致しないことに留意が必要である。
さらに同氏は、同家譜において当主毒殺後幼少の「春丸」が擁立され「義隆弟」の「二本松伊賀守」が後見したとあり、この人物こそ畠山義隆のことではないか、としている。
つまり、畠山義隆は二本松氏を継承し天正期の能登畠山氏を支える重臣として存在していたとされるのである。現在、この推論を越える仮説はなく、後述していくようにこの仮説は他の所伝や息子義春との関係も整合性が取れることからも蓋然性が高く、ここではこの仮説に従いたい。
しかし、『長家家譜』の記述からの推測では、義隆は義慶の弟となる。しかし、義慶は元亀3年に元服していることが確実であり(*4)、その弟が天正5年時に15歳前後と推定される義春を子として持つことは不可能である。よって、義隆は義慶の弟ではない、と言える。
では、義隆は系譜中のどこに位置づけられるのであろうか。ここで『系図纂要』畠山氏系図を見る。注目は「義続」(法名や世代などから実際には義総、義続の二世代の事績を含んでいるようである)の庶子として挙げられる「義有」である。「義有」は系図中に、「二本松伊賀守」を名乗り「義春」を後見し天正5年に死去したことが記されている。『長家家譜』における記述と共通性がある。
この「義有」こそが、義隆のことであろう。そうであれば、息子義春との年齢関係も合う。系図中に「義有」とされた理由は、二本松氏の名乗りである「治部少輔」と永享期に活動が見られる畠山治部少輔義有という人物が混同されたのではないか。尤も、義隆の仮名、官途名、受領名は確実な史料では確認されない。
つまり、義隆は能登畠山氏当主である義続の庶子で、二本松畠山氏を継承した存在である可能性が高い。上条義春にとって上条政繁は叔父にあたることとなる。
<2>二本松畠山氏の動向
能登国における二本松畠山氏の動向について検討してみたい。
永正14年に冷泉為広が能登国畠山治部小輔亭で和歌を詠んでいる。これは為広の著作『為広能州下向日記』に記されており、当該部分には「畠山治部少輔 二本松也」(*5)とある。さらに、同日記の別の部分には冷泉為広が「源治部小輔貴維」に歌集を貸与したことが記される。ここから、上記の二本松畠山治部少輔の実名が「貴維」であったことがわかる。
また、天文11年4月には『大館常興日記』に「いりこ十束、畠山二本松殿より給之、毎年儀也」「御太刀、二本松殿より年始御礼進上之」と記される(*6)。「毎年儀」とあるように年始に幕府関係者へ物品を贈呈していたことが想定され、天文9年にも同日記に「畠山二本松治部少輔殿」による贈呈の記録が残る。この治部小輔は貴維か、その後継者であろう。
上述の『為広能州下向日記』には為広が能登滞在中に受け取った礼銭が纏められている(*7)。能登畠山氏一族としては、「御やかた」と記される畠山義総が百貫文、「二本松殿」=畠山貴維が十貫文、「大隅殿」=畠山家俊が三貫文、「畠山九郎殿」が一貫文、と所見される。それ以外は家臣団の記載となり、額はどの武将も一貫文から三貫文である。当主に次ぐ額を献上していることから、二本松畠山氏は能登畠山氏においてその政治的立場も当主に準ずるものであったと推測される。
天文11年5月に足利義晴の入洛の際に能登畠山氏から太刀等が献上されたことが『大館常興日記』に記されている(*8)。その中で、畠山義総に続いて「畠山二本松殿」が記載され、この二人については大館晴光によって速やかに取り次がれたという。これも、二本松畠山氏が当主に続くNo2の地位にあったことを示す。
以上から、二本松氏が治部少輔を名乗り能登畠山氏の重要一族として存在したことがわかる。
畠山義隆も二本松氏を継承し、若い当主義慶を後見するような重鎮として存在したことは想像に難くない。事実、天正元年に気多神社造営に関わる檀那衆の交名(*9)には「畠山修理大夫殿」=義慶を筆頭として、その次に「二本松殿」=義隆が見られる。
<3>義慶死後、家督を継いだのは畠山義隆である
『長家家譜』(*10)において天正2年の死去とされている義慶であるが、実際の死去は『興臨院月中須知簿』(*11)より天正4年4月のことである。ちなみに、『長家家譜』によれば享年は19である。
この義慶の死去した天正4年4月以降は、『長家家譜』『系図纂要』は義春が家督に擁立されていたとする。ただ、どちらの所伝も実際には義隆が家督を継いでいた徴証が窺える。
『長家家譜』においては、「義隆」=義慶の死後、遊佐続光と共謀して「二本松伊賀守」=義隆が家督を相続しようとするも、諸士の反対に合い「義春」(家譜は義慶の息子に位置づけるが実際には義隆の子)を家督とし「伊賀守」=義隆は本丸に入り後見役となったとする。すなわち、義隆は義慶死後家督を狙い、それが失敗すると後見役となることで事実上の当主の座についた存在として記される。
また、『系図纂要』において「義春」、「二本松伊賀守」共に天正5年の死去とされるが義春は上条義春としてその後も生存しているから、天正5年に死去したのは「二本松伊賀守」=義隆のみであろう。
そうであれば『長家家譜』における天正5年上杉謙信の七尾城攻めの記述中にある閏7月「畠山義春卒去に付、城内之将卒勢気失ひ」とある「義春」は、義隆のことを指すと捉えられる。すると、当主として語られ天正5年に死去した「義春」は、実際には義隆の誤りだったのではないか。
『長家家譜』において「義春」が跡を継承し義隆は後見とされる理由であるが、事実に反して「義春」が義慶にあたる人物の子、すなわち庶流ではなく嫡流とされること点が関係していると感じる。同家譜においてその主役である長氏はあくまで忠臣として描かれるわけで、上述の部分も長綱連の活躍で遊佐続光や「二本松伊賀守」=義隆の台頭を抑えて先代の子「義春」を守立てたというシナリオとなり、それに添ったものである。しかし、実際には「義春」は義隆の子であることから長綱連が嫡流を守ったという事実はなく、『長家家譜』における義慶死後のやり取りは、長氏が義慶の殺害、義隆の台頭に関係せず嫡流に忠実であったと美化する後世の作為であると考えられる。
江戸後期作の『越登賀三州志』にも畠山義綱追放の記事が同じように人物を混同して記載されている。具体的には、「義則」を追放する際に「諸臣義則を廃し義隆を立つべき内儀密決し」たことが記される。やはり、一世代のズレが生じながらも、義慶が廃され義隆が擁立されたことがこのような所伝の背景にあるのではないか、と考える。
よって、系図、所伝からは義慶死後、二本松義隆が遊佐続光らと共謀し家督を継承したと考えられる。そして、上杉謙信の七尾城攻めの最中に死去したと推測される。『長家家譜』が伝えるようにその死が七尾城陥落に影響を及ぼしたことは十分に考えられるだろう。
では、義隆が家督を継承したという点を一次史料から読み取れることは可能だろうか。
度々、言及している天正5年12月上杉謙信書状(*3)には「畠山義隆御台、息一人有之而候ツル」とある。
まず、義隆が実名で呼称されていることが注目される。この時代には敵味方限らず殆どの場合、通称で記される。ただ例外として、一定の地位にある者については実名で記される場合がある。
上杉謙信で例を挙げれば、元亀元年に当時同盟交渉中の味方である徳川家康に対し酒井忠次宛書状(*12)、松平真乗宛書状(*13)において「家康態使僧、誠大慶不過之候」、元亀元年直江景綱書状(*14)では「信長(織田)・義景(朝倉)御一和」とある。敵対勢力に関しては「氏康」や「晴信」は度々所見される。他の武将を見ても、永禄12年深谷上杉憲盛書状(*15)「憲政(上杉)御家督御与奪」、元亀2年小田氏治書状(*16)「晴朝(結城)、資胤(那須)へ意見可申儀」などがある。
特に、永禄12年上杉輝虎書状(*17)では「義重(佐竹)、宇都宮、多賀谷」とあるように、明らかに何らかの基準で区別がされていたと見られる。恐らく政治的地位、影響力、家格などであろう。
義隆も、能登畠山氏当主という地位にあったため実名で呼称されたのではないか。
さらに、もう一点は「御台」という表現が気になる。これは妻を表わすわけだが、特に上位にある人物の妻を敬うものである。やはり、義隆が当主であったが故の表現と感じる。
以上の二点から、一次史料からも義隆は義慶死後に能登畠山氏家督を継承したと捉えられる。
<4>能登畠山氏における義春
ここまで、義隆を中心に検討しその存在形態について一つの結論を出すことができた。それを踏まえて、子義春についても検討したい。
まず、その年齢は以前上条義春について確認した時に詳述したが、永禄6年生まれの天正5年時に15歳と見られる。これは畠山義綱-義隆-義春、という父子関係の推定に合致するものである。
幼名は系図や所伝に見られる「春王丸」であろうか。
その実名から元服は能登畠山氏時代に行われたものと見られる。義隆が当主として活動したのであれば、義春はその後継者として存在したと考えられ、仮名「次郎」は歴代能登畠山氏当主などに見られる仮名でありそれを意識したと捉えられる。すると、元服は義隆が家督を継承した天正4年4月以降である可能性が高い。そうであれば、天正5年時に15歳という推定は正鵠を得たものといえる。
以上、畠山義隆と義春について検討した。ここまで数回にわたり、上条上杉氏の系譜と能登畠山氏の系譜関係を横断的に検討してきた。簡単にまとめれば、畠山義続の庶子として上条政繁と二本松畠山義隆の存在が推定され、後に能登畠山氏家督を継承した義隆の子義春が上条政繁の養子となって活動したと考えられる。
*1) 瀬戸薫氏「能登畠山氏の滅亡と上杉氏の支配」(『七尾市史』通史編Ⅰ)
*2) 瀬戸薫氏「『加能史料』と戦国末期」(『加能史料』戦国16)、ここで同氏は畠山義慶の死去が天正4年のことと明らかになったため、(*1)における人物比定も後考の余地があるとする。しかし個人的には、所伝の年月日に誤差があることはよくあることであるから、特に大きく変更する必要はないと思っている。
*3) 『上越市史』別編1、1368号
*4)『加能史料』戦国16、39頁
*5)『加能史料』戦国6、303頁
*6)『加能史料』戦国11、129頁
*7)『加能史料』戦国6、361頁
*8)『加能史料』戦国11、139頁
*9)『加能史料』戦国16、72頁
*10)同上、342、386頁
*11)同上、252頁
*12)『新潟県史』資料編5、4323号
*13)『越佐史料』四巻、817号
*14)『上越市史』別編1、933号
*15)『新潟県史』資料編5、4038号
*16)『越佐史料』五巻、88頁
*17)『上越市史』別編1、822号
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