鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

『越後過去名簿』から見た黒田秀忠とその一族

2020-10-09 23:59:27 | 黒田氏
黒田和泉守秀忠が天文後期において越後守護代長尾晴景とその弟景虎へ反乱を企て滅亡させられたことは有名である。当ブログにおいても以前黒田秀忠の乱の実態について長尾景虎の家督相続との関連を中心に検討した。

以前の記事はこちら


今回は『越後過去名簿』(*1、以下『名簿』)における黒田氏関係者の記載を検討して、黒田秀忠とその反乱について補足してみたい。

まず、『名簿』中に見える黒田氏関係者の記載を年別に挙げてみる。太字が戒名を表し、細字が供養された者或いは供養を依頼した者の情報である。

享禄元年
1、9月25日「㟢運道興 春日山黒田泉守立」

天文16年
2、1月27日「月宗妙光 春日山黒田和泉老母立之」
3、5月10日「通山昌徹 春日山黒田和泉守立」
4、5月10日「海月妙底 春日山黒田泉守立之」
5、7月11日「東月善興 黒田和泉守内方立之」
6、7月11日「清芳一心 春日山黒田和泉守内方立之 各願寺トリ次」
7、7月11日「円生妙昌 春日山黒田和泉守内方立」
8、7月15日「忍叟善勝 府中黒田和泉守タメ立之 逆」
9、7月15日「花渓文仲 ふ中黒田和泉守内方タメ 直ニ立之 逆」
10、7月15日「 春日山黒田和泉守内方 かか 逆 浄阿弥」(□は梵字)
11、7月15日「妙高 春日山黒田和泉守千代子立之 逆」

天文17年
12、6月1日「徳巖浄盛居士 府中黒田和泉守子新八良タメ」

天文18年
13、2月12日「善栄 府中春日山黒田新蔵」

まず、天文16年における黒田一族の供養の多さは特徴的である。これについては、前嶋敏氏の研究に詳しい(*2)。それによれば、「とくに供養依頼が集中している年に複数の供養依頼を行っている武将は権力中枢に近いことが想定される。」とし、「『黒田和泉守』とその関係者が天文十六年に10件もの供養を依頼していることからすれば、春日山の黒田氏は、晴景権力において中枢部を担う有力者であったとみてよいであろう。」と指摘している。

8は黒田秀忠による逆修であり、9は秀忠の妻の逆修である。


さて、二度にわたる黒田秀忠の乱は天文17年10月頃と天文18年2月頃に比定されることは、以前に紹介した。それを踏まえて『名簿』を見てみると、12において黒田秀忠の子息が供養されていることから天文17年における黒田氏の活動が確認されるが、天文18年2月に供養されている「黒田新蔵」(表:13)を最後に黒田氏が所見されず、反乱の年次比定を裏づける。

「新蔵」は新造とも表記される妻女を表す語句であるから、「黒田新蔵」は黒田氏の人物の妻を指すと考えられる。天文18年2月28日に長尾景虎が小泉庄小河氏に「黒田一類悉愈為生害候」(*3)と黒田氏の滅亡を伝えていることを踏まえると、同年2月12日の日付を記す13の記載は黒田氏滅亡に関連していると考えられる。文書と『名簿』において黒田氏の動向は一致していると言えるだろう。


以上のように、文書から天文17年から18年2月にかけての出来事と比定される黒田秀忠の乱は『名簿』によっても裏づけられることが理解される。また、それは天文16年を頂点とした黒田氏の盛衰についても如実に伝えていると言えよう。


*1)山本隆志氏「高野山清浄心院『越後過去名簿』(写本)」(『新潟県立博物館研究紀要』第9号)
*2)前嶋敏氏「景虎の権力形成と晴景」(『上杉謙信』高志書院)
*3)『上越市史』別編1、5号

21/4/11リンクを追加した。

山吉孫五郎と永正7年長尾為景の関東派兵

2020-10-03 21:00:52 | 三条山吉氏
山吉孫五郎は永正7年の上越国境における紛争において活躍している。その詳細を整理して、孫五郎の動向を把握してみたい。

永正7年6月長森原の戦いにおいて山内上杉可諄が戦死し同憲房が上野国白井城へ退却したことにより一年にわたる長尾為景・上杉定実と山内上杉可諄・憲房との抗争が終結する。すると、抗争末期に為景と相模国において連携を取っていた長尾景春入道伊玄が上野国へ移動、援軍を要請し、為景は援軍を派遣した。7月28日には伊玄と為景派遣軍の福王寺彦八郎が宮野(みなかみ町、猿ヶ京)で山内上杉軍に勝利している(*1)。8月3日に上杉憲房が「長尾左衛門入道伊玄起逆意、彼同名六郎致一味、沼田之庄内ニ打入、号相俣地ニ令張陣候」(*2)と述べており、長尾伊玄と派遣軍が沼田庄内、相俣(みなかみ町)に着陣したことがわかる。[史料3]より沼田氏も味方しており、伊玄が沼田庄を拠点としたと理解される。


[史料1]『越後三条山吉家伝記写』
自伊玄之切紙委細披見、先以足軽於山中被置候者、可然候、其方之事者、諸軍打着之上、時宜調可被遣候哉、何様其庄江寄陣可申合候、其有無之切紙返申候、謹言
 八月十三日   定俊御判形
  山吉孫五郎殿へ

[史料2]『新潟県史』資料編5、2457号
御折□(御折紙カ)披読、則及披露候、仍小森沢弥二郎在所へ、近辺地下人等令乱入候処、□□制止被相静由、可然候、随而上田庄被成其御刷上、落居不可有程之由被仰越候、専一候、先書如申欠く各被差越候条、能々被遂御相談、御武略簡要候由、可得御意候、恐々謹言、
                     長尾
 九月廿五日                 為景
  兵部まいる人々御中

[史料1]は古志を拠点とし上杉定実の実父とされる上条定俊(*3)発給の孫五郎宛書状である。長尾伊玄からの書状が孫五郎を介して越後へ送られたこと、伊玄らが足軽を山中に配置したのは良いこと、孫五郎は援軍が着いた上で派遣される予定のこと、定俊も「其庄」へ出陣する予定であることが伝えられている。

この時点で孫五郎がいた「其庄」はどこだろうか。

[史料2]は[史料1]の翌月のものであるが、ここから長尾伊玄が戦う沼田庄だけでなく、越後国内上田庄においても紛争があったことがわかる。上田庄は山内上杉氏の影響が大きく、ここを本拠とする上田長尾氏も抗争中は山内上杉氏についていた。このように、上杉可諄の戦死後も山内上杉勢力の抵抗は残存していたと考えられ、為景はその鎮圧にあたる必要もあったのである。

山吉孫五郎に宛てられた8月20日付長尾伊玄書状(*4)に「先度以使申候処、十八・十九日両日ニ、可被打着由候間、待入候」と、本来なら8月18・19日頃着陣予定だった孫五郎が伊玄の元へ着いていないことがわかる。「中途ニ滞留如何」と伊玄が不満を表すように、孫五郎は出陣しながらも関東の手前に在陣していたのである。

よって、孫五郎は上田庄に在陣していたと考えられる。


[史料3]『越後三条山吉家伝記写』
自府中書状共、早速具委細披見、則及御報候、於其方皆々伊玄書状罰文有披見、□へ可被遣候、此上諸軍談合簡要候、謹言
自六郎殿之切紙返可給候
 八月十三日   定俊御判形
  山吉孫五郎殿へ

上田庄に在陣していた孫五郎は[史料3]からもわかるように、越後国長尾為景と上野国長尾伊玄の間の外交交渉に奔走していたようである。


[史料4]『越佐史料』三巻、558頁
御注進状致披露上、被成御書候、可為御満足候、
一、兵部為御意見、福王寺ニ少々被相加人数山を可被越之由候哉、他国之儀候間、毎篇無越度之様可仰合事専一候、
一、御上使御公用以下、堅被仰付候故、近郷之方出陣延引之由候歟、是又兵部へ御申候て、御催促尤候、次自御上使如仰越候、今度御出陣之方取分、其方御同道衆濫妨狼藉以外之由候、雖無申説候、堅可被仰付事簡要候、
一、従沼田殿書状も、前之御返事恩田同名中も同前候間、不及御返事候、
一、自伊玄御一札、并罰文状事、此方ニをかせられ候、
一、夫丸事示給候、何様正盛談合申内候、可得御意候、
一、昼夜之御陣労奉察候、何様旁追而可申入候、恐々謹言
    九月七日                 長寿院 妙寿
     山吉孫五郎殿 御返報

[史料4]は[史料3]の翌月、孫五郎宛に府内長尾氏の奉行人長寿院妙寿から発給されたものである。条項に分けて検討していきたい。

1条と2条、6条は軍事活動に伴う注意である。1条より、福王寺氏の援軍として孫五郎がついに越山する予定とわかり、2条の「今度御出陣之方取分、其方御同道衆濫妨狼藉以外之由候」から孫五郎が兵の乱暴狼藉の取り締まりを命じられている。その範囲は孫五郎が率いる「御同道衆」が中心であるが、その他も含める「今度御出陣之方」に対しても影響力を持っているように捉えられ、孫五郎が派遣軍でも中心的存在であったことがわかる。また、6条にある「昼夜陣労」から孫五郎が上田庄において軍事活動を行っていたことが裏づけられる。

「兵部為御意見」や「兵部へ御申」など、兵部という人物が目立つ。この人物は上条氏であることから(*5)、[史料1]や[史料2]で孫五郎へ軍事活動について言及している上条定俊に比定できると考える(*6)。

3条、4条では孫五郎の外交交渉に関係するもので、長尾伊玄や沼田氏がその対象だったとわかる。この頃の沼田氏当主は伊玄の娘婿の顕泰と考えられている(*7)。

5条は、夫丸すなわち物資運搬の人足についてのやり取りである。孫五郎は正盛と談合するように求められており、この頃の山吉氏が正盛、能盛、孫五郎がそれぞれ活動している構造を示していると考えている。

この後、上野国において孫五郎、伊玄らの動向を伝えるものはない。実際に孫五郎ら追加の派遣軍が上野国へ向かったかは不明である。ただ、[史料4]において孫五郎側も為景側も越山への意思があったことから、越山した可能性は十分にある。ただ、長尾伊玄も翌年までには沼田庄から甲斐国都留郡へ後退しており(*7)、大規模な抗争に発展することはなかった。以後関東への軍事介入を行わなかったことからも、為景の主眼は関東への援助ではなく上田庄など国内の地固めであったのではないだろうか。

以上、山吉孫五郎の動向を中心に永正7年に行われた越後軍の関東派兵について検討した。永正6・7年の為景と山内上杉氏の抗争後、沼田庄における長尾伊玄の活動に加え上田庄においても抗争が行われていたことに留意すべきであろう。そして、それらおいて山吉孫五郎が活動していたことを確認した。当ブログでは山吉孫五郎が後年に見える孫右衛門尉景盛の前身と考えているわけだが、為景の派遣軍の主力として孫五郎が活動しているところに実名「景盛」を名乗った背景が見えてくるのではないだろうか。


*1)『越佐史料』三巻、558頁
*2)同上、555頁
*3)森田真一氏「上条上杉定憲と享禄天文の乱」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*4)『越後三条山吉家伝記写』
*5)『新潟県史』資料編3、171号
*6)森田氏は(*3)において兵部を上条定憲に比定する。個人的には、上条定憲はこの年6月時点で山内上杉氏方として「上条弥五郎」の名で見えているから、同年8月から為景方で山吉氏へ意見するような人物としては不適切に思える。『越後三条山吉家伝記写』は上条定俊を掃部頭とするが文書では確認できない。古志を拠点としていた定俊であれば、山吉氏とも地縁的繋がりがあったのではないか。
*7)黒田基樹氏「長尾景春論」(『長尾景春』戒光祥出版)、黒田氏はこの長尾伊玄の上野国北部における軍事行動は姻戚にあった沼田氏の存在に基づく、とする。

山吉景盛の動向3ー関連史料の紹介ー

2020-10-02 20:42:41 | 三条山吉氏
山吉景盛の史料類について紹介し、いくつか検討してみたい。


[史料1]『新潟県史』資料編3、535号
(端裏ウハ書)「              山吉孫右衛門尉
      和田山殿 御報              景盛」
御札具披見候、仍持地庵分配当之由承候、努々不存候、就中、御合宿中未配当不届之由候哉、何方ニも闕所候者、当人相当之義、被御覧合、可被仰越候、可申届候、随而下条入道方知行分事、承旨候キ、其分可被成配当之由、御返事事候キ、丹波守一札をも進候て、可然義候者、蒙仰可申届候、恐々謹言、
 十二月廿五日                 景盛

[史料1]は年次不詳の文書である。『長岡市史』は享禄初年と比定している。山吉政久が丹波守として見えるから、大永期以降であることは確実である。持地庵の所領の分配について和田山氏から異議が寄せられたため、景盛が所領の分配を調整している。「丹波守一札をも進候」より、山吉政久の対応もあったとわかる。山吉氏の郡司としての役割であろうか。

[史料2]『三条市史』資料編2、144号
於御神前、十七日間抽家一祈巻数頂戴願望候、勝者大槻正之内千苅令寄進状如件、
 天文十一年三月廿一日 景盛

[史料3]『三条市史』資料編2、162号
御社領役陳文之事、任詫言令宥免之、弥以可被抽惑祈事、可為肝秀者也、
 天文廿四日
   正月廿一日 景盛
 堀切
  八幡

[史料2]は景盛が三条八幡宮へ宛てた寄進状の写である。大槻荘の内千苅を寄進する、という内容である。

[史料3]も景盛が三条八幡宮へ宛てた安堵状の写しである。『三条市史』は語句に問題ありとするが、写しであることを考慮すると許容できる範囲ではないか。

『三条山吉家伝記写』によれば、三条八幡宮は山吉氏が「三条城二之丸」に建立したものであるという。

景盛発給文書は[史料1]から[史料3]、大永7年只見次郎左衛門尉宛山吉景盛書状(*1)、天文21年山吉政応等連署禁制(*2)の五通が残る。


続いて、『三条同名同心家風給分御帳』(以下『給分帳』)から景盛の所領を考えてみたい(*3)。
 
『給分帳』が記される天正5年時点で景盛が生存していたとは考えにくいが、「山吉孫右衛門尉」という名がみられる。孫右衛門尉は、名乗りは景盛に通じ、記載順も山吉玄蕃の次であり、その所領高も大きいことから一族中でも有力者と考えられ景盛の後継者である可能性が想定できる。ここでは、景盛の所領を推測するため孫右衛門尉の記載内容を検討する。

『給分帳』で孫右衛門尉の所領として、

福嶋村  現 新潟市西蒲区福島
灰潟村  現 燕市灰方
はり山  不明
筒井   不明
曲通   現 新潟市南区上曲通/下曲通
高木   現 燕市高木
こうや  現 三条市興野

が挙げられている。孫右衛門尉は全て合せて(本符見出し共に、以下も同じく)101貫700文という知行高である。これは『給分帳』の中で仁科孫太郎の138貫700文に次ぐ大きさである。また、孫右衛門尉は「当不作」として13,090苅があり、「当不作」を含めて考えると『給分帳』中最大級の規模となる。特に山吉氏一族と比べると山吉玄蕃允が42貫920文、掃部助が16貫569文、右衛門尉が12貫文、源衛門尉が53貫文、四郎右衛門尉が17貫文、兵部少輔が12貫530文とその差は歴然である。景盛と天正期孫右衛門尉の関係についての仮定を踏まえてではあるが、景盛が有力一門として大きな基盤を保持していたことが推測できる。


『上杉御年譜』においても景盛が登場する。天文12年に景虎が黒田和泉守、長尾平六と合戦に及ぶという内容が伝えられておりその中で、景虎が味方として招集したとされる武将として「中郡ニハ山吉丹波守、山吉孫右衛門、平子孫太郎、斉藤八郎、安田治部少輔、菅名神五郎、松本石見守、水原伊勢守、小中大蔵、和田山三郎等」が挙げられている。『上杉御年譜』における天文期の所伝は信頼に欠く部分が多く、黒田和泉守の反乱もこの年にあったとは思えないが、「山吉丹波守」が山吉政久、「山吉孫右衛門」が景盛を示していることは明らかである。山吉氏として政久と景盛が並んで記されているのも、景盛の影響力を示唆していよう。


以上が景盛の活動に関する史料的な徴証である。史料集などにおいて「山吉氏の一族。」といった簡潔な説明がなされる場合の多い景盛であるが、その存在は山吉氏の領主支配を支えるものであった。府内長尾氏の有力被官である山吉氏の一門である景盛が、府内長尾氏にとっても見過ごせない存在であったことはその実名が示している。戦国期において、領主一族の活動を史料で確認できる例はそう多くなく、景盛はその好例であるといえるだろう。


*1)『新潟県史』資料編3、525号
*2)『新潟県史』資料編5、2678号
*3)金子達氏・米田恒雄氏「「三条闕所御帳・三条同名同心家風給分御帳」の紹介」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)において、現在所蔵されるものが作成されたのは戦国末期から江戸初期であるが内容は天正期と考えられる、とされる。『給分帳』の表紙には天正5年とある。『給分帳』「同名同心家風」の記載中に後の景長である山吉玄蕃が記されていることは景長の山吉氏継承以前の内容を記していると考えられ、表紙に従い原本は天正5年の成立と考える。