戦国期越後国古志郡栖吉を拠点に活動した栖吉長尾氏は天文12年までに長尾景虎(上杉謙信)によって継承されたことは、以前に検討した。しかし、それ以前に栖吉長尾氏として活動していた長尾房景とは史料的空白が存在する。
この空白期に栖吉長尾氏として誰が活動していたのであろうか。今回は、この問に対して一つの仮説を提示してみたい。
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1>栖吉長尾氏と「定景」
まず、房景の終見は栖吉長尾氏家臣只見助頼に宛てられた大永7年11月吉田景親等連署段銭預状(*1)に「豊州様」と出てくるものになる。『越後長尾殿之次第』によれば、房景に子がなかったため長尾景虎がその跡を継いだという。
しかし、房景の終見から景虎の栃尾入城までに約15年の空白がある。房景の死去と、その次代の存在を想起させるには十分な時間である。房景が生存していたならば、享禄・天文の乱などにおいて一切文書に登場しない点は不自然であるように感じる。
景虎の誕生は享禄3年であるから、房景が史料上の終見後まもなく死去していたとすればそれは景虎誕生以前の可能性もある。
やはり、房景と景虎の間に一世代あるように感じられる。それを文書から窺えるものが次の[史料1]である。
[史料1]『歴代古案』第一、197号
今度不慮之義出来、抽忠信蒙疵無比類候、弥可励懇志事、肝心者也、
四月十日 定景
小越源三郎殿
[史料1]は実名「定景」を名乗る人物による感状である。
小越源三郎は他に所見がないが、『歴代古案』に拠れば後筆で「平左衛門事」と書き加えられている。小越平左衛門尉は、庄田定賢らと共に栖吉長尾氏を継承した長尾景虎のもとで活動し、のちに栖吉衆の一員として見られる。
すなわち、小越平左衛門尉は栖吉長尾氏被官と考えられる。すると、[史料2]でわかるように小越氏に対し軍事指揮権を持っていた定景は栖吉長尾氏の人物であった可能性が高い。
小越平左衛門尉の初見は天文17年長尾景虎書状(*2)であり、終見は天正7年(*3)である。元亀2年に小越与十郎(*4)、天正6年に小越宮内丞(*5)、天正7年に小越与六兵衛(*6)らが見え平左衛門尉の次代にあたるであろう。『先祖由緒帳』に拠れば与六兵衛が平左衛門尉の三男である。
平左衛門尉が仮名源三郎を名乗ったとすれば、それは天文前期から中期にかけてのことであったと推測される。
そして、景虎が栖吉長尾氏を継承した後は、小越氏も景虎の軍事指揮下にあったことが確認できるから、[史料1]は景虎の栖吉長尾氏継承以前の時期に発給されたものと考えられる。
よって、長尾定景は天文前期に栖吉長尾氏家臣の軍事指揮を掌握していた人物であり、それは栖吉長尾氏当主である蓋然性が高い。ちょうど、天文前期という時期は房景と景虎の空白期に一致する。
すなわち、房景の後継者として定景を想定する。
ちなみに、応永期にも越後において長尾定景という人物の活動がみえる(*8)。定景は信濃守を名乗った人物で、守護代長尾高景の三男であり、守護代長尾頼景の父にあたる。[史料1]の「定景」がこの人物ではないか考えることもできるが、定景は守護代長尾氏の人物であり栖吉長尾氏被官小越氏との関係は認められない。
また、米沢藩『先祖由緒帳』を見ても小越氏の家伝は小越平左衛門尉より後代の記載となっており、平左衛門尉の活動時期を大きく遡る応永期頃の家伝や文書は存在していなかった可能性が高い。『先祖由緒帳』に平左衛門尉がクローズアップされていることからも、[史料1]は天文期頃の小越氏に関する文書であると考えられる。
[史料1]にある「定景」は、応永期の信濃守定景とは別人であるといえる。
2>定景と栖吉長尾氏家臣団
天文期から永禄期に活動する栖吉長尾氏出身の有力武将に「定」字を冠する者が見られる。庄田定賢や大関定憲がそうである。栖吉長尾氏当主であった定景からの偏諱と考えられないだろうか。
定景自身は越後守護上杉定実からの偏諱と考えられるが、庄田定賢や大関定憲は栖吉長尾氏被官である立場上、定実から一字を与えられたとは考えにくい。上田長尾氏においては上杉氏からの与えられた一字を家臣へ与える事例が確認できるから、この場合も上杉定実→長尾定景→庄田定賢・大関定憲という偏諱の過程が想定できる。
栖吉長尾氏家臣団の実名から定景の存在が示唆されると考えるのである。
3>定景に関する所伝
「定景」という名が出てくる所伝を見てみたい。
『平姓長尾氏系図』は長尾晴景の初名を「定景」とする。しかし、晴景は幼名道一を名乗っていた時に将軍足利義晴の偏諱を受け「弥六郎晴景」を名乗っているから、「定景」を名乗ったことはない。
また、『白川領風土記』は鵜川神社に残る安堵状(*7)は上杉謙信祖父の「長尾左衛門尉定景」なる人物の文書であると伝わっていること記している。しかし、謙信の祖父は父方が長尾能景、母方が栖吉長尾房景であるため、これも誤伝である。
このように、謙信(長尾景虎)に関連した人物として「定景」が所伝されていることがわかる。これらは誤伝であるが、栖吉長尾氏が定景から景虎へ継承された点が反映されたとも考えられよう。
以上、栖吉長尾氏の空白期を検討し、長尾定景という人物が房景の次代当主であり定景の跡目を景虎が継承した、との可能性を提示した。
*1) 『越佐史料』三巻、736頁
*2)『上越市史』別編1、237号
*3)『越佐史料』五巻、638頁
*4)『新潟県史』資料編5、3508号
*5)『上越市史』別編1、1580号
*6) 『越佐史料』五巻、665頁
*7) 同上、三巻、851頁
*8) 同上、58頁