鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

栖吉長尾氏の系譜

2021-07-02 11:58:27 | 長尾氏
越後古志郡栖吉を拠点とした長尾氏は戦国期において顕著な活動を見せる。その成立と、歴代当主、さらにその庶流について検討していきたい。

系図としては、原本が天正14年成立の『越後長尾殿之次第写』(以下『長尾次第』)を中心に栖吉長尾氏の人物を見ていく。

以下、栖吉長尾氏の人物について検討する。人物の名乗りがわかりにくいため、同一人物には同一のアルファベットを付記している。


(A) 景春カ/入道道継・豊前守
『長尾次第』に「古志上田両家初祖 蔵王堂豊州」と記されるのは、「長尾弾正左衛門」の次男「豊前守景春」である。越後守護代と推定され、文書上は入道名「道継」として見える。


(B) 某・豊前守
『長尾次第』によると景春(A)の嫡男「豊前守」が古志郡を拠点に、次男「兵庫助景実」が上田庄を拠点とする長尾氏にそれぞれ分かれた。前者が栖吉長尾氏であり、後者が上田長尾氏である。景春(A)の次世代で二氏が分家したことが示される。

この人物は子に恵まれず、景春の三男で弟である「備中守宗景」(C)が栖吉長尾氏を継承したという。


(C) 宗景カ/入道長泉・備中守
『長尾次第』に実名「宗景」、法名「月映長泉」と伝わる。実名については、後代の長尾備中守宗景との混同も考えられるため、その利用は慎重さが求められる。

応永34年2月長尾長泉文書(*1)に「御おん御れう所」=御恩御料所を「四郎さへもん入道」へ渡すとあり、さらに同年4月長尾四郎左衛門尉宛上杉房朝安堵状(*2)で「祖父備中入道長泉跡料所給分」の相続が長尾四郎左衛門尉に認められている。ここから、長尾備中守入道長泉(C)と孫の四郎左衛門尉(D)の存在が明かである。


(D) 某・四郎左衛門尉/備中守
『長尾次第』に、長泉(C)の嫡子は死去したため家督を継げなかったとあり、孫「四郎左衛門」(D)が長泉(C)の跡を継承したという。上述文書からこれは裏づけられる。

さらに『次第』には嫡男が栖吉長尾氏、次男が蔵王堂長尾氏、三男は甑沢長尾氏に分家したとある。文書上でも文明4年に甑沢への分家が確認され、永正期には栖吉長尾氏と別に備中守を名乗る系統が活動することを踏まえると、蓋然性は高い。

また、後掲[史料1]において受領名備中守が明らかである。


(E) 元景・弥四郎/備中守
『長尾次第』に「栖吉初祖」とあり、この人物の代に拠点を移したことが伝えられる。「惣領」とあり、この系統が嫡流であると認識されていたことがわかる。


[史料1]『新潟県史』資料編3、174号
御料所御恩之地所々事、方々相分候之由、内々被聞召候、不可然候、所詮、如故備州之時可有支配之由、被仰出候、此分可被相心得之由候、恐々謹言、
 十二月十三日          沙弥太西
                 左衛門尉頼景
  長尾弥四郎殿

[史料1]は従来文明2年に比定されていたが、長尾頼景が「左衛門尉」を名乗る時期を考慮すると文安2年から宝徳2年の文書と比定される(*3)。よって、この「長尾弥四郎」は四郎左衛門尉(D)=「故備州」の次代で、孝景(F)の先代であると言える。


また、「御料所御恩」の土地を家臣に分割していた状況はこの頃既に見られていたと推測できる。守護上杉房定が宝徳2年に越後へ下向したのは守護代長尾氏を牽制するだけでなく、独自な動きを取る領主層の引き締めも目的の1つであったと捉えることができよう。

守護上杉房定と前守護代長尾実景が対立していた頃、守護への忠誠を求めた宝徳3年飯沼頼泰・長尾頼景連署起請文(*4)が「なかをひん中守」=長尾備中守に宛てられている。この備中守は、弥四郎と同一人物(E)であろう。

さらに、享徳4年6月には享徳の乱に伴う上州三宮原合戦での活躍を賞する感状が上杉房定らから「長尾備中守」に発給されている(*5)。この人物(E)と見られる。

この他、年不詳7月長尾備中守宛上杉房定感状(*6)があるが、同じくこの人物(E)であろう。「栗田城合戦」での活躍を賞されていることから、信濃での活動が示唆される。すると、寛正6年6月畠山政長書状(*7)より同時期に上杉房定と信州小笠原が信濃村上氏、高梨氏を攻める計画があったことが記されており、この軍事行動に関連したものと推測されよう。寛正6年であれば、この文書が備中守(E)の終見である。


系図類では実名は記されないが、文明4年雲照寺妙瑚書状に一族の長尾又四郎が「元景御在城之時」に活躍したことが記されており、この「元景」が長尾備中守(E)である可能性が考えられる。

その徴証として、栖吉長尾氏に縁のある守門神社に「元景」の署名を持つ文書(*8)が伝わっている。この文書は『新潟県史』に「検討を要する」とされてはいるが、「元景」という人物が影響力を持つ立場で存在したことを示唆している。


(F) 孝景・弥四郎/豊前守
文明2年12月上杉房定安堵状(*9)において、「当知行分」を「長尾弥四郎」として安堵されており、孝景(F)の確実な初見である。

長享3年9月長尾能景書状(*10)、上杉常泰書状(*11)に「長尾豊前守」と見え、この時点までに受領名豊前守を名乗ったことがわかる。

明応4年12月長尾孝景譲状(*12)、上杉房能安堵状(*13)に孝景が息子「小宝士丸」へ「隠居分」を残して所領を譲与しており、孝景(F)から小宝士丸=房景(G)に代替わりしたことがわかる。

終見は永正5年11月倉俣実経他五名連署奉書(*14)である。


(G) 房景/小宝士丸(丸)・弥四郎/豊前守
明応4年に家督を譲られる。孝景(F)の譲状には「小宝士丸」とあるが、他文書では「丸」とも記されている。

永正元年10月長尾能景書状(*15)まで、小宝士丸(丸)として所見される。永正4年12月上杉定実知行宛行状(*16)に「長尾弥四郎」と見えるから、この間に元服し実名「房景」を名乗ったと推測される。実名は発給文書から確実であり、それが上杉房能からの偏諱であるならば、元服は房能の死去する永正4年8月以前のこととなる。

永正18年4月長尾為景書状(*17)まで「長尾弥四郎」として見え、大永7年10月作成の段銭帳『豊州段銭日記』(*18)中に房景が「豊州」と記されているから大永年間に受領名「豊前守」を名乗ったと推測される。

そして、同年11月吉田景親等段銭請取状(*19)が房景の終見である。


その後、長尾景虎が栖吉長尾氏を継承したと推定される。

しかし、房景の終見は大永期であり景虎の栃尾入部とは約15年の隔たりがある。栖吉長尾氏におけるこの空白期をどう捉えるかは、判断の分かれるところである。

個人的には史料的な状況から見ても房景と景虎の間に一世代存在した可能性があると考えている。詳しくは次回検討したい。



以上、長尾房景まで栖吉長尾氏の系譜を考えた。推定される系譜は次の通りである。

A景春カ/道継(豊前守)-B某(豊前守)=C宗景カ/長泉(備中守)-某-D某(四郎左衛門尉/備中守)-E元景(弥四郎/備中守)-F孝景(弥四郎/豊前守)-G房景/小宝士丸(弥四郎/豊前守)



*1) 『新潟県史』資料編3、216号
*2) 同上、217号
*4) 『新潟県史』資料編4、193号
*5) 同上、194号
*6) 同上、196号
*7) 『越佐史料』三巻、141頁
*8) 『新潟県史』資料編5、2717号
*9) 『越佐史料』三巻、172頁
*10) 『新潟県史』資料編3、190号
*11) 同上、52号
*12) 同上、221号
*13) 同上、220号
*14) 同上、191号
*15) 同上、223号
*16) 同上、173号
*17)同上、156号
*18)『越佐史料』三巻、729頁
*19) 同上、736頁