当時は大騒ぎになりましたね。ソ連軍が虎の子の”MiG 25"を取り返しに来襲するとかで当時の自衛隊は臨戦体制に入りました。各種砲に実弾が装填されたようです。
ベレンコ中尉は米国に亡命した後は、しばらく動静不明となりました。大韓機撃墜事件の際にはソ連側の交信内容の解読をしたそうです。
機体は函館空港から航空自衛隊の百里基地に米軍の”C 5A"ギャラクシーで輸送され、徹底的にテストされた後、ソ連に返還されました。
この後は防空レーダー網の弱点を補うため、空飛ぶレーダーサイト"E2C"ホークアイが導入されたりしました。当時の主力機であった"F4EJ“も弱点であったルックダウン(下方監視)能力の改良が施されることになったのです。