日本訳数千部発行以来、幸いに読者の歓迎する所となり、日ならずして全部売り尽くしましたのみならず、「小さき花」の自叙伝により、失望、苦痛の者が、茲(ここ)に一つの光明に照らされ、希望となり、慰藉を得、平和を求め、終(つい)にイエズスの愛に浴し裨益を得ましたものより、その消息を接しこと数多くあります。訳者の本懐何物かこれに過ふるものがありましょうぞ。
世の唯物論や懐疑論に、飽き疲れて居る者、人世の戦いに疲れ、困憊、煩悶、失望の淵に臨んで居る者等が、心を穏やかにして、天来の福音ともいうべき此の自叙伝を静かに繙くならば、心身共に爽快を覚え、言うべからざる妙味に触れて一道の光明を認めるであろう。また修道女にとりては無上の奉天となり、普通の信者に取りては大いに利益を得、深き謙遜を以ってこれを繙けば、霊妙なる感化によりて霊魂が向上され、強き力を以って愉快に天の方に惹かされるであろう。
此の書の中には何人も倣うべき美徳がある、即ち子が親に対するがごとく、絶えず主を望み主を愛し、如何なる聖旨も喜びて従い、聖旨に適う事なればいかなる事も良しと思う事で、例えば凡人と見做され、貴人と呼ばれ、人に命令し、人に従い、或いは称賛せられ、或いは蔑視せられ、或いは貧しき者となり、或いは富める者となり、長寿を保つ者、短命に終わる者となるも、総て主の聖旨ならば、同じく喜び甘んじて受け、常に主の聖旨に対しては唯々として従うことである。これ即ち天主の子兒の生活にして、所謂「子兒の道」である。 ああ此の「子兒の道」は如何にも立派で、苦業を望むよりもなお完全である。人々にとっては真に安心し真に甘んじて「小さき者」となる事は、最も美しく力ある犠牲である。単に苦業という中には、ややもすれば傲慢自愛の心情が交じるが、「子兒の道」に於いては、決して左様な虞(おそれ)がなく、何事も主に信頼し、己は何を為し何を傲るか(おごるか)という事さえも知らぬのである。幼きイエズスのテレジアも「小さき者」となって、愛に燃つつ身も心も主に献げて全く委せ(まかせ)望む。事あれば無邪気にこれを打ち明け、主の聖慮(思し召し)は従順にこれを守ったから遂に主に愛せられ、主に恵まれて完徳に達したのである。また彼女は「小さき者」となり深く謙遜していたればこそ、遂に若い身を以って、短日月の間に優れた知識と正しい判断力とを得、後の世に至るまで我々に朽ちざる鑑を遺されたのである。
されば誰人も常に此の書を読み此の書を友とするならば、その霊魂は次第に善に惹かされてテレジアの如く深く天主を愛し、苦難を愛するようになり、自然人に事へ易く、他人の欠点を忍び易くなり、尚如何なる誘惑に遭うも心平らにして強き抵抗力が生ずるようになり、愉快に人生を送り、立派に人の子の義務を全うする事が出来るのである。
そして斯かる美しき徳の花は、ただ真の宗教の花園にのみ咲くのであるから、世の人々が富貴逸楽を歓び望むが如き熱心を以って、目に触れざる此の真の宝を得ん事を望む。
また此の世界の人々に恩寵を呼び下さんが為、天より降る此のテレジアは、今日多数の者を強く助ける為、自ら野の花となって馨しき(かんばしき)香りを放ち、以って俗塵(ちり)に浴びながら彷徨うている旅人を慰め歓ばせておられる。我らはその深き恩恵をなおざりにせず、尚も主に感謝し主に祈って、彼女の徳にあやかるの恩寵を願わねばならぬ。
かつてテレジアは「我はいつも主に愛のみを献げたから、主もまた我に愛のみを以って報いて下さる」と言われたが、我ら多くの者は最早此の預言的の言葉の成就を見て、益々彼女を愛し、彼女を慕うようになりました。奇妙にも主の摂理によって、彼女が特に尊敬していたジャンヌダルク童貞、テヲファノ・ベナル(聖テオファヌ・ベナール Saint Theophane Venard)宣教師が、共に福者の冠を受けられし千九百九年に於いて、此の幼きイエズスのテレジアを福者聖者の列に加えん為の有意者の調査が始まりました。
今日世界各国至る所に此の「小さきテレジア」の名が宣伝せられ、かつ、その伝達(とりつぎ)により惠を得たもの、その数を挙げる事が出来ませぬ、どんな国の僻陬(へきすう:へんぴな土地)までもその名を知らぬものはありませぬ、一千九百二十三年「福者」の位に列せられ、一千九百二十五年聖女の冠を戴かれる事になりましたのは偶然ではありません。原文は優麗なる詩的の文字、句々誦(くくしょう)すべく、言語力ありて、しかも趣味津々、感想、情懐、荘重、崇高にして幽玄の意を表す凡てこれ金玉の文字、これを日本語に訳せましょうか、その適当なる 訳語と崇美、敬虔の言葉乏しく、やむなく通俗卑近の現代語口語体を以ってせしも、努めて原意を損せぬことにせり、読者これを諒せられん事を。
一、書中天配、童貞、聖霊、等の如き意味を含んだ、公教的の敬語は、一々これを解釈すれば、一冊子を要するので、その説明を省きました。その意義についての場合は、なにとぞ最寄りの公教会の霊父に質問せられんことを望みます。
一、要するに深遠玄妙の意を含みし、霊魂上の賜を、何人にも、了解易からしめん為に努めたのであります、一人でも多く此の書を反復熟読し、何ものかの裨益を得られたならば、ただ訳者のみの満足ではありません。
一、此の書により、多少の裨益を感得なされた諸彦(しょげん:多くの方)は、どうかその恩寵を得られた要項を、訳者の手許へ御一報を願いたいのです、そして併せて訳者の為に一片の祈祷を賜らんことを。
一千九百二十五年五月十七日
幼きイエズスのテレジアが聖者の位に列せられた日にあたりて
訳者 シルベン・ブスケ記す
読んでくださってありがとうございます。yui
みなさまに感謝を。
応援してくださった方、ありがとうございます。
世の唯物論や懐疑論に、飽き疲れて居る者、人世の戦いに疲れ、困憊、煩悶、失望の淵に臨んで居る者等が、心を穏やかにして、天来の福音ともいうべき此の自叙伝を静かに繙くならば、心身共に爽快を覚え、言うべからざる妙味に触れて一道の光明を認めるであろう。また修道女にとりては無上の奉天となり、普通の信者に取りては大いに利益を得、深き謙遜を以ってこれを繙けば、霊妙なる感化によりて霊魂が向上され、強き力を以って愉快に天の方に惹かされるであろう。
此の書の中には何人も倣うべき美徳がある、即ち子が親に対するがごとく、絶えず主を望み主を愛し、如何なる聖旨も喜びて従い、聖旨に適う事なればいかなる事も良しと思う事で、例えば凡人と見做され、貴人と呼ばれ、人に命令し、人に従い、或いは称賛せられ、或いは蔑視せられ、或いは貧しき者となり、或いは富める者となり、長寿を保つ者、短命に終わる者となるも、総て主の聖旨ならば、同じく喜び甘んじて受け、常に主の聖旨に対しては唯々として従うことである。これ即ち天主の子兒の生活にして、所謂「子兒の道」である。 ああ此の「子兒の道」は如何にも立派で、苦業を望むよりもなお完全である。人々にとっては真に安心し真に甘んじて「小さき者」となる事は、最も美しく力ある犠牲である。単に苦業という中には、ややもすれば傲慢自愛の心情が交じるが、「子兒の道」に於いては、決して左様な虞(おそれ)がなく、何事も主に信頼し、己は何を為し何を傲るか(おごるか)という事さえも知らぬのである。幼きイエズスのテレジアも「小さき者」となって、愛に燃つつ身も心も主に献げて全く委せ(まかせ)望む。事あれば無邪気にこれを打ち明け、主の聖慮(思し召し)は従順にこれを守ったから遂に主に愛せられ、主に恵まれて完徳に達したのである。また彼女は「小さき者」となり深く謙遜していたればこそ、遂に若い身を以って、短日月の間に優れた知識と正しい判断力とを得、後の世に至るまで我々に朽ちざる鑑を遺されたのである。
されば誰人も常に此の書を読み此の書を友とするならば、その霊魂は次第に善に惹かされてテレジアの如く深く天主を愛し、苦難を愛するようになり、自然人に事へ易く、他人の欠点を忍び易くなり、尚如何なる誘惑に遭うも心平らにして強き抵抗力が生ずるようになり、愉快に人生を送り、立派に人の子の義務を全うする事が出来るのである。
そして斯かる美しき徳の花は、ただ真の宗教の花園にのみ咲くのであるから、世の人々が富貴逸楽を歓び望むが如き熱心を以って、目に触れざる此の真の宝を得ん事を望む。
また此の世界の人々に恩寵を呼び下さんが為、天より降る此のテレジアは、今日多数の者を強く助ける為、自ら野の花となって馨しき(かんばしき)香りを放ち、以って俗塵(ちり)に浴びながら彷徨うている旅人を慰め歓ばせておられる。我らはその深き恩恵をなおざりにせず、尚も主に感謝し主に祈って、彼女の徳にあやかるの恩寵を願わねばならぬ。
かつてテレジアは「我はいつも主に愛のみを献げたから、主もまた我に愛のみを以って報いて下さる」と言われたが、我ら多くの者は最早此の預言的の言葉の成就を見て、益々彼女を愛し、彼女を慕うようになりました。奇妙にも主の摂理によって、彼女が特に尊敬していたジャンヌダルク童貞、テヲファノ・ベナル(聖テオファヌ・ベナール Saint Theophane Venard)宣教師が、共に福者の冠を受けられし千九百九年に於いて、此の幼きイエズスのテレジアを福者聖者の列に加えん為の有意者の調査が始まりました。
今日世界各国至る所に此の「小さきテレジア」の名が宣伝せられ、かつ、その伝達(とりつぎ)により惠を得たもの、その数を挙げる事が出来ませぬ、どんな国の僻陬(へきすう:へんぴな土地)までもその名を知らぬものはありませぬ、一千九百二十三年「福者」の位に列せられ、一千九百二十五年聖女の冠を戴かれる事になりましたのは偶然ではありません。原文は優麗なる詩的の文字、句々誦(くくしょう)すべく、言語力ありて、しかも趣味津々、感想、情懐、荘重、崇高にして幽玄の意を表す凡てこれ金玉の文字、これを日本語に訳せましょうか、その適当なる 訳語と崇美、敬虔の言葉乏しく、やむなく通俗卑近の現代語口語体を以ってせしも、努めて原意を損せぬことにせり、読者これを諒せられん事を。
一、書中天配、童貞、聖霊、等の如き意味を含んだ、公教的の敬語は、一々これを解釈すれば、一冊子を要するので、その説明を省きました。その意義についての場合は、なにとぞ最寄りの公教会の霊父に質問せられんことを望みます。
一、要するに深遠玄妙の意を含みし、霊魂上の賜を、何人にも、了解易からしめん為に努めたのであります、一人でも多く此の書を反復熟読し、何ものかの裨益を得られたならば、ただ訳者のみの満足ではありません。
一、此の書により、多少の裨益を感得なされた諸彦(しょげん:多くの方)は、どうかその恩寵を得られた要項を、訳者の手許へ御一報を願いたいのです、そして併せて訳者の為に一片の祈祷を賜らんことを。
一千九百二十五年五月十七日
幼きイエズスのテレジアが聖者の位に列せられた日にあたりて
訳者 シルベン・ブスケ記す
読んでくださってありがとうございます。yui
みなさまに感謝を。
応援してくださった方、ありがとうございます。
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