日本でも「プロフェッショナル」という言葉はよく使われているが、一般的には「素人とプロ」のように高度な技術的能力を発揮することと捉えられているだろう
しかし、そもそもは「神への宣誓」というような意味だという。
現代に当てはめるとどうなるか?
クライアント(依頼主)に対して「利益相反」がない状態で仕事をすると宣誓をした専門家というところだろうか?
日本でクライアントが、プロフェッショナルに対し、この「利益相反」をどのくらい重視しているか、あるいは気にしていないか?を考えてみることは興味深いことだと思う。存外あまり気にしない、意識しないクライアントが多いのではないだろうか?
対して、アメリカでは公職につく行政マンが事前の身元調査で「利益相反」を徹底的に調べられるという。関連する分野で「利益相反」が認められる人間は公職につくことができない。なぜか?当然、違法な利益誘導や供与、便宜などの懸念があるからだろう。
疑わしきは「初めから制限する」べきというのが彼の地の常識だが、日本ではどうか?
昨今の五輪疑惑を見ても、性善説が強く意識されていて「人を信用する」ことが和となり善となる世界で、悪い人間はやりたい放題やっているのではないかと思うと悲しくなる。
もちろん良い人間には関係のない世界だと思うが、問題が起きてからどうこうするより問題が起きないような仕組みを整えるのが上策と思う。
建築設計における「利益相反」とはどういう状況を指すだろうか?例えば建売住宅を考えてみるとわかりやすいだろう。
設計者は誰に雇われているか?を考えるのがいい視点となる。建売業が儲かるのは儲かるような仕組みで商売をしているからである。「どうすれば儲かるか?」が先にあって、購買者の利益が後になる。見た目は良くて安くできる、それは雇われる設計者の「腕」と言われる。工事の手抜きとは違う、ミニマムスペック(必要な技術的な仕様を最低限にすること)による利益増大手法だ。さらに法的に工事をチェックすべき設計者が雇い主のいいなりになり、指摘すべきことを言わないことも散見される。
そこには厳然としたクライアントに対する「利益相反」状況がある。
これを法的に看過しているのが日本の現実であり、多くの人は知らぬ間に安物買いの銭失いをしている。そして往往にして新聞沙汰になるような悪質工事が起き、それに引っかかることとなる。
日本人は昔はクライアントを大切に考え、信頼のもとに働くプロフェッショナルをもっと大切にして社会的に認めてきたはずだ。
私の職域である建築設計事務所、建築家はそれが大切であることを社会にもっとアピールするべきだと思う。
今こそ何が正解なのか?誰のいうことが本当に自分や社会の利益を守ることになるのか?を見極める審理眼を育てて行く必要があるのではないだろうか?
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