戦争中、川崎市中原区あたりには、軍需工場がたくさんありました
そのせいで、米軍のB29の標的となり、終戦の年の4月にはいわゆる「川崎大空襲」をうけました
一帯は、焼け野原となり、おおくの方が犠牲となりました
そして戦争がおわった後には、焼けた軍需工場の跡地のひとつを、米軍が接収しました
その場所が、今の川崎市中原区にある「中原平和公園」です
中原平和公園は、今でこそ、市民のいこいの場として親しまれています
しかし、S少年がこどもだったころ、そこには「アメリカ陸軍出版センター」なるものがありました
S少年たちはそれを「アメちゃん」とか「印刷局」などとよんでいました
それは、ある意味では、親しみをこめた表現ではありましたが、
一方では、「また恐ろしい戦争の相手となるかもしれない敵」の施設・・・
そんな不安の気持ちも入り混じった、複雑な気持ちでもありました
「アメリカ陸軍出版センター」は、鉄条網で厳重に警備されていました
その門の前には、憲兵がいて、いつも近よりがたい雰囲気がただよっていました
そんな米軍の施設があったので、アメリカ兵はこのあたりにたくさんいました
彼らは、道であえば流暢な日本語ではなしかけてきて、気さくにガムをくれたりします
S少年は、少しおそろしいような気がしながらも、思わず「日本語じょうずですね」とはなしたりしていました
一度その「印刷局」に、米軍のリコプターが降りてくることがありました
近所にすむ老若男女が我さきにと集まって、まるで宇宙船でもみるかのように、食いいるようにみつめていたそうです
そんなかつての敵国だったアメリカの「印刷局」でしたが、年に一度、自由に立ち入りできる日がありました
今から思えば、おそらく本土アメリカの「独立記念日」だったのではないでしょうか
門に憲兵の姿はなく、だれでも自由に入り口からはいることができました
なんだか、お祭りのような雰囲気がただよっています
S少年は、友だちと一緒に、きょろきょろしながら中に入りました
何があるのか、こわいもの見たさで進んでいきます
すると突然、大きな体つきのアメリカ兵が少年たちに何かをさしだしました
びっくりして手に取ると、それは見たこともないような鮮やかな色の紙の束でした
手のひらほどの大きさのカラフルな四角の紙が、一遍をのりづけしてメモ帳のようになっています
きめのあらいワラ半紙やうすっぺらな画用紙しか知らない少年たちには、カラーペーパーのメモ帳は、まさにお宝
一枚一枚ていねいにはがしとっては、思い思いの形におってみたり、自由に絵や文字をかいてみたり
それを、さも得意げに、たがいに見せ合いっこして遊ぶのでした
そんな色紙のはしきれは、米軍の「印刷局」にとっては、きっとゴミ同然だったでしょう
でも、そんな色紙を無邪気に喜ぶS少年たちの姿は、アメリカ兵にもほほえましいものでした
任務で日本にいたアメリカ兵だって、本土にのこしてきた家族を思わない日はなかったにちがいありません
戦争にはたとえ勝っても負けても、楽しかったり幸せになったりした人はひとりもいませんでした
また、年に一度はいれる「印刷局」の中には、ちいさなホールのような場所もありました
おとなたちにまじって、その中にはいると、スクリーンではアメリカの野球の試合が上映されていました
今でいえば、大リーグのダイジェスト版のようなものだったのでしょうか
次々にでてくるバッターは、ホームランばかり打ちます
何もしらないS少年は、「アメリカ人はなんとホームランばかり打つものか・・・」と心のそこから、感激していたのでした
そんな「アメリカ陸軍出版センター」は、戦後30年たった昭和50年に、すべて返還されました
そして、今の中原平和公園と、県立住吉高校などができました
中原平和公園にあるのは、平和をねがう、たくさんのオブジェや植樹
さまざまなイベントの会場となる、野外音楽堂
広々としたレンガ敷きの、であいの広場
はだしの広場は、夏の間、小さいこどもむけの浅いプールになります
大きな遊具があるのは、冒険広場
水路は整備されて、水鳥のすがたもみえます
って、今日はいませんでしたね・・・ ざんねん・・・
そして、毎日たくさんの人や犬があつまる、草原のお山もあります
シェルティー・ラン吉が、まだ我が家にくる前からの遊び場です
この中原平和公園には、ひとつの都市伝説があります
それは、アメリカ陸軍出版センターが撤収する際に、のこしたタイヤを地中にうめて、今のお山ができたというもの
お山の周辺をみれば、このうわさが真実だったとわかります
基地をはじめとした米軍による接収地が、日本中にまだまだたくさんあるようです
戦争がなかったら、このあたりは、また今とはちがった町並みだったでしょうね