そうざい屋の店主は、声をふるわせながら、K坊やに言いました
「おい、K坊、あれ、お前んちにいた犬じゃないか、ちょっと呼んでみろ」
K坊やは、なにを言われているのか、ピンときません
「ほら、でかい犬がいたろ、なんていったかな、えーと、ほら、トチとかいってたろ」
K坊やは「トチ」という名前をきき、あらためておおきな犬をみて、一瞬のうちに記憶がよみがえりました
でも、目の前にいる犬はあまりにもガリガリで汚れていて、それが「トチ」だとはにわかに信じられません
ましてや、K坊やの住んでいる町と箱根とは、同じ神奈川県内でも、100キロも離れていると聞かされていました
K坊やは、半信半疑でおそるおそる近づいていきます
「おいお前、トチなのか?おいお前、トチか?トチ?トチ?」
その犬は呼びかけられると、なんと、しっぽをブンブンとふりながらK坊やにかけよってくるではありませんか
そして、K坊やに飛びついて、クンクンと体をすりよせてきます
K坊やの顔といわず首といわず頭といわず、ペロペロ、ペロペロとなめまくります
「わぁ~!トチだぁ~!トチ~!トチ~~!!」
K坊やは、大声で泣きながら「トチ」を抱きしめ、全身をバチバチとたたきまくります
「トチ、こんなにガリガリにやせちゃって、こんなにボロボロによごれちゃって~
どうしちゃったんだよ~、トチ、トチ~」
そうざい屋の店主は、K坊やの家や近所の店にむかって、おおきな声で人をよびました
「おーい、K坊んとこの犬が帰ってきたぞ~!みんな来てみろ!トチだ~、トチだぞ~!」
騒ぎを聞きつけて、近所から大勢の人たちが集まってきました
K坊やの家からも、お母さんが出てきました
「トチ」はお母さんに気づくと、まるで狂ったように、お母さんに突進してじゃれつきます
お母さんは、あまりにはげしく「トチ」がよろこび動くので、ハグすることもできないくらい
2年まえにK坊やからひき離されたあの「トチ」が、遠くから自分だけでかえって来たことは、だれの目にも明らかでした
「トチ」をやっかい者あつかいにした人たちも、「トチ」が遠くからかえって来たことを知りました
「この犬、箱根から戻って来たらしいよ、2年もたってからだってさ・・・」
「忠犬ハチ公とおなじ、秋田犬だってね・・・」
「よほど、K坊が好きだったんでしょうよ・・・」
K坊やのお母さんは、涙でグショグショになりながら、泥だらけの「トチ」に頬ずりしています
「トチ」がK坊やとお母さんに再会した姿を目のあたりにして、もらい泣きしている人もいました
親しいご近所さんが近づいてきて、そっとお母さんの肩にふれて言いました
「奥さん、トチを家のなかに入れてあげなよ。このままずっと外においとくこともできないでしょう、犬小屋もないことだし」
お母さんは、はっと我に返りました
「ああ、ありがとね。ほんと、そうだわね」
そして、集まっていた人たちに頭をさげて言いました
「みなさん、ご迷惑をおかけしています・・・
トチなんですけど、こんなふうに、ここにかえって来てしまって・・・
ご覧のとおり、とても弱っているので、このまま放っていくわけにもいきません・・・
ほんとは、ここにいちゃいけない子なんだけど・・・
すいません、ゆるしてやって・・・、トチのこと・・・」
周囲にあつまっていた人たちは、なにも言わずに、去っていきました
2年ぶりにかえって来た「トチ」は、泥まみれでガリガリで、あまりにもみすぼらしい姿でした
犬小屋はすでに取りこわされているので、「トチ」を家にいれてやらざるを得ません
外につないでおいて、また脱走でもされたら、それこそ一大事です
きれい好きのお母さんは、汚れた「トチ」の体を雑巾でふき始めました
K坊やは、そんなお母さんがもどかしくてたまりません
「母さん、そんなことより、はやく何か食べさせてやってよ」
「ああ、そうだわね。まず、お水を飲ませなきゃね」
お母さんがハチミツを少しとかした水を「トチ」の鼻先におくと、「トチ」は待ってましたとばかりに、ペチャペチャとおおきな音をたてて飲みました。
「何かご飯もつくってあげなくちゃね」
「トチ」はお母さんからはおじやを作ってもらい、K坊やからは給食ののこりのパンをもらいました
一口ずつもらってパンを食べ、だんだん「トチ」のお腹もふくれてきました
そして、最後の一口を食べ終わると、K坊やの手についたジャムをきれいになめて、ゆっくりふせをしました
K坊やが「トチ」の背中をしずかにさすってやると、「トチ」はその場にゴロンとよこになり、やがてウトウトし始めました
ガリガリにやせて、肋骨のうきでた胴の腹がふくれて、おおきく息をしながら全身が波うつようです
やっとここにたどり着いてK坊やたちに会い、やさしく受けいれられ食べ物をもらって、心から安心したのでしょう
そんな「トチ」をみて、K坊やの胸ははりさけそうでした
「僕はトチのことを忘れていた。でも、トチはしっかり、うちの場所まで覚えていた
そしてとおい所から、ひとりで歩いてここにかえって来たんだ
道を人にたずねることもできず、ましてや地図をよむこともできないのに・・・
僕や母さん父さんに会いたくて、ひたすら知らない道をかえって来た・・・」
K坊やは、そんな「トチ」がいとおしくてかわいくて、けなげに思えてならないのでした
畳のうえは泥だけになっていましたが、そのまま寝かせておくことにしました
K坊やのお母さんは、お父さんの職場に電話をかけました
「トチがかえって来てしまったのよ・・・仕方ないから家にいれてるわ
今はご飯食べてねむってるけど、ガリガリにやせてる・・・
箱根で何があったかわからないけど、面倒みてやらないと・・・」
「トチ」のことを聞いて、お父さんはいつもより早く仕事からかえってきました
「トチ」はお父さんに気づいて目がさめると、ガバッと飛びおき、やはりしっぽを大きくふってかけより、じゃれつきました
お父さんは、うれしくてはしゃぐ「トチ」に、飛びつかれるまま、立ちすくしていました
そして「トチ」がはしゃぎ終わるとそっと「トチ」をハグして、「トチ、よく無事で生きてかえってきたな」とささやきました
「トチ」のことをすっかり思いだしたK坊やは、
「ねえ父さん、トチはやっぱりここが好きだったんだよね?
だから戻ってきたんだよね?トチはやっぱりここで暮らすほうがいいんじゃないの?」と聞いてみました
「K坊、トチがもどって来たのは、箱根よりもここが好きだとはかぎらないんだよ
犬はね、前にいた場所にもどる習性があるんだ
何かのきっかけで、こんなことになったけど、まず箱根のようすも聞いてみないといけないな」
お父さんは、「トチ」をゆずった箱根の知人に電話しました
<後編につづく>
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