*キャリル・チャーチル 作 徐賀世子 翻訳 鈴木裕美 演出 公式サイトはこちら シアターコクーン 24日まで
昨年夏に本作をベースにした劇団フライングステージの『トップ・ボーイズ』、冬にミズキ事務所の『トップガールズ』をみて、そのあいだに何度か戯曲を読み返した。
戯曲から思い浮かぶのは、どちらかというと小ぢんまりしたイメージである。場面によってこまごまとした小道具類はあっても、大きなものといえばテーブルと椅子、ソファくらいで大掛かりな舞台装置が必要とは思われず、特にコクーンのように縦横たっぷり広い劇場では舞台で行われていることが拡散して伝わりにくいのでは?という懸念をもった。
長方形のフレームが、まっすぐだったり、歪んでいたり、最後には天井から屋根のような形でつり下がったりして舞台空間を仕切る。場面が変わるごとに舞台奥に当てる照明の大きさがしゅーっと広がったり縮まったりして大きな扉や小さな窓などを示し(もっとうまく書けないものかね)、シーンが変わったことを客席に実感させる効果を上げている。こういう演出を「オシャレ」「スタイリッシュ」「洗練されている」というのだろう。
ここで、「演出とは何だろうか?」というとてつもない問題を考えるのだった。自分なりに、演出とは、演出家がその戯曲をどう読んだか、どう感じたかを客席にいかに示すかであると思う。それは決して「仕掛け」や「舞台の絵面」に集約されるものではなく、ひとつの台詞を俳優にどう言わせるか、観客にどう聴かせるかではないか。たとえば井上ひさしの戯曲のト書きには、「万感の思いこめ」、「血を吐くような声で」、「全世界を抱きしめるように」といった、声に出して読まれないト書きなのに、劇作家の思いがまさに万感の思いこめ、血を吐くように、全世界を抱きしめるように刻みつけられているものがある。これを俳優にどう言わせるか、客席にどう聴かせるか。また逆に人物の動作や状況だけが淡々と記されている戯曲もあって、俳優の表情ひとつ、視線の動かし方ひとつに、戯曲に書かれていない何かをどう提示するかに、戯曲に対する演出家の志が問われることになる。
自分にとって、本作の最後の台詞、アンジーの「怖いよう」を演じる俳優にどう言わせるか、客席にどう聴かせるかが最も重要な点であった。鈴木裕美はこの台詞のあと、最後の最後にまさかの仕掛けをみせた。や、こう来ましたか。まったく予想しなかった終幕にあっと息をのみ、シアターコクーンの高さや広さをこのように活かす手腕に驚いたのだが、やはりそれでも微妙な違和感が残った。俳優の台詞や表情そのものから、「怖いよう」の実感を得たかったのだ。
『トップ・ガールズ』は、物語が現在に移ってからの時制が前後し、戯曲をはじめて読んだとき、あれあれ?と戸惑った。まったく戯曲を読まないで舞台をみると相当に混乱するのではないか。なぜ最後の場面がその前の場面の一年前になるのか、そこにどんな演劇的意図や効果があるのか、実はいまだによくわからないのである。
前半のパーティ場面で小泉今日子の台詞が出てこなくなったときには、さすがにここまでのアクシデントをみるのは初めてで非常に冷や冷やさせられて閉口したが、マーリーン役の寺島しのぶ、姉ジョイス役の麻実れい、転職したい病?の中年女性を痛々しく演じた神野三鈴も印象に残る。ほんとうに豪華な配役だ。しかし後半で渡辺えりが演じた少女アンジーの造形にどうしても疑問がわく。俳優の実年齢や容姿と役柄のギャップが強く出て、確かにおもしろいし笑えるし、俳優の演技の巧みであることもわかる。しかし劇作家がその配役をしたのはなぜか、それを通して何を言いたいのか、肝心なところがよそに行ってしまってはいないか。
停電や交通機関の乱れを考慮してであろうか、カーテンコールは一回のみであった。苦く不可解な幕切れを抱えて劇場を出る。2度めの『トップ・ガールズ』は(2.5度めともいえる)はまた自分に課題を残した。
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