*マキタカズオミ脚本・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 31日まで (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11)
観客は劇場で舞台に出会うだけでなく、自分にも出会う。自分の好みはよくわかっているつもりだ。しかし時おり、まさかこういったものに惹かれるとは・・・と自分の心なのにわけがわからなくなる経験をする。無意識の部分が顕在化するのは新鮮な喜びでもあり、ある意味で恐怖でもある。
マキタカズオミの作品、elePHANTMoon(以下エレファント)の舞台との出会いは、まさに「知らなかった自分の心」との出会いでもあったのだ。最初の出会い(2009年初夏『成れの果て』)からまる6年がたった2015年5月、舞台との出会い、自分との出会いがそれぞれ新しく与えられた。
SM倶楽部「ペラドンナ」の女王様(SM嬢をこう呼ぶらしい)の真里瑠こと池松詩織が、タカムラという顧客をSMプレイ中に死なせる事件が起こった。舞台はタカムラがはじめて店を訪れる場面にはじまり、ほかの顧客と女王様たち3組、緊縛師の店長、真里瑠の弁護士とその妻が登場する。エレファントの舞台にしては珍しく、抽象的な舞台美術が組まれている。天井から銀色の大きな輪が2つ吊り下げられ、そこから銀色の細いポールが何本も伸びている。上手にデスクと椅子があり、そこでSM嬢が顧客の希望を聞く。すぐうしろには女王様の衣裳や靴、鞭や手錠やさるぐつわなど、さまざまなSMグッズが置かれていて、下手のプレイスペースに移るやいなや、さっきまで丁寧に応対していた真里瑠がいきなりタカムラを平手打ちし、「いつまで服を着てるの?」と女王様に豹変する。
そこからはじまるSMプレイの数々が、今回の舞台のひとつの見せ場であろう。ひと口にSMと言ってもさまざまで、ぬるいものやおふさげ風、ショー的にアレンジされたものなどあるらしいが、本作のSMはおそらく本気度の非常に高いものである。男たちは裸同然にされ、さまざまに肉体を傷めつけられる。身体だけでなく、女王様に絶対服従しなければならないから、奴隷や犬のポーズをさせられ、罵詈雑言を浴びる。映像とちがって編集のできない舞台である。俳優はほんとうに激しく鞭うたれ、縄で縛られ、蝋を垂らされる。
これまでもカルト集団の儀式的な食事(『業に向かって唾を吐く』)や、あまりに執拗な平手打ち(『劣る人』)、一種の獣姦(『降霊』)など、暴力的でグロテスクな場面や描写はいろいろあった。ここまでやるか、やりすぎ、悪趣味といった感覚すら超越しており、どうしてこんなことを思いつき、舞台で見せようとするのか理解はできないものの、マキタカズオミの作品にはいわく言いがたい「則」のようなものがあり、あざとさが感じられず、受けとめられるのである。
観劇した日はアフタートークがあり、うさぎストライプの大池容子がゲストとして登壇したのだが、さすが同業者の視点は実に鋭く、的確である。大池いわく、「マキタさんの作品は、戯曲のために登場人物がいて、動いている感じがある」。なるほどマキタ作品は物語性が明確であり、人物一人ひとり、性格も背景もしっかりと書きこまれており、捨て役がない。また扱う題材や設定は猟奇的で異様なものが少なくないが、ちがう時空を行き来したり、突拍子もない展開になることはないので、ちゃんと筋を追って見ることができるのだ。
マキタは映像の仕事も多いのだが、自身は映像と舞台のちがいがよくわからないのだそうだ。エレファントの舞台は映画みたいとよく言われ、演劇やる必要性がない、映画でも出来るとも言われるという。自分は「映画みたいだ」と感じたことはまったくなく、むしろわざわざ演劇にすることで、みずからの逃げ場をなくし、追いつめるようにして何かを探っている印象がある。
この日のトークを聞いて、マキタカズオミには、演劇に対して距離を取っている、あるいは不慣れがところがあり、決して手だれの人ではないと思われた。
今回マキタはあまり物語をやろうと思わなったそうだ。真里瑠の弁護士とその妻の描写に、その意志が示されている。SMクラブ周辺の人々に比べると、弁護士はノーマルな男性であり、その妻もどうように見える。しかし、ふとしたはずみに不妊に悩む妻が心を病み、夫も疲弊していることがわかる。下手のSMクラブのデスクのあるスペースがそのまま弁護士夫婦のリビングに見たてられるのだが、ふたりで旅行に行きたいと話が弾み、旅のパンフレットを探そうとして、妻はSMグッズが置かれた棚に手を伸ばし、鎖やら何やらを掻きまわしながら軽い錯乱状態に陥る。
あ、ここに来たかと思わず身を乗り出した。この夫婦が壊れていく様相、もしかしたらそこにSMが絡み、ものすごい展開になるのでは?
公演期間なので詳しくは書かない。物語をやろうとしなかったことの長短はあって、やや拡散したまま終わってしまった印象は否めない。人々がSMに夢中になるのはなぜか、暴力は殴る蹴るなどの行為そのものだけではなく、暴力を奮う人、受ける人の関係性を指す。わざわざ金を払ってまでからだを痛めつけ、ことばによって心も傷つけられることに喜びを感じるのは、それがプレイであるから、金を媒介とした関係であるからではないか。これがもしほんとうに暴力によって支配される関係になった場合、彼らはどうなるのか。マゾヒストが自ら死を望むまで行きついてしまうこと、その理由も背景もわからない。
しかし本作から新しい劇世界へ変貌を遂げんとする兆しがたしかにあって、わたしのエレファント病はますます重篤になりそうなのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます