因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

演劇集団円・シアターχ提携公演 『バースディ・パーティ』

2015-05-25 | 舞台

*ハロルド・ピンター作 喜志哲雄訳 内藤裕子演出 芦沢みどりドラマトゥルク 公式サイトはこちら シアターΧ 31日で終了
 本作はピンターの初期のもので、1958年初演の劇評は、ひとりの批評家を除いて散々であったそうだ。
 内藤裕子は一昨年の『ワーニャ伯父さん』の演出、昨年の女流劇作家シリーズでの『初萩ノ花』の作・演出、さらに俳優さとうゆいとの演劇ユニット・、green flowers(グリフラ1,2,3,4,5)での作・演出など、地味ながら着実な前進が感じられる演出家である。内藤裕子の活動を振りかえってみると、古典と呼んでもいい外国戯曲から現在活躍中の日本の劇作家作品(2009年『初夜と蓮根』)までかかわりながら、なおかつ自身でも劇作を行うという、非常に幅広い活動を継続している。ピンター作品も「ドラマリーディングvol.0 ハロルド・ピンター」において『山の言葉』を演出しており(未見)、今回の『バースディ・パーティ』はこれまでの実績を踏まえた意欲的な企画と思われる。

  さびれた海辺の町で、ピーティとメグの老夫婦が営む小さな民宿が舞台である。民宿といっても、普通の家とあまり変わりない大きさではなかろうか。一階部分はいわゆるロビーだのラウンジだのエントランスなのだろうが、家具はやや大きめのテーブルに椅子が数脚とソファくらいである。キッチンは少し奥まったところにあって、メグはカウンター越しに料理を手渡したりする。中央には二階客室に上がる階段、上手には玄関に通じる廊下がある。

 冒頭の老夫婦の会話から、観客は「なぜメグは新聞を読んでほしいと頼むのか」、「どこかの伯爵に娘が生まれたことにどういう含みがあるのか」、「スタンリーはほんとうにピアノ弾きなのか」、「二階のスタンリーの部屋から聞こえるメグの嬌声を、ピーティはどう聞いているのか」など、小さな疑問が次々に湧いてくる。登場人物の台詞やしぐさ、物語の展開によってその疑問が解け、謎が解消して話を理解することを観客は望むのであり、作劇もまたその期待に応えんとするのが通常であろう。

 ピンターはそうではない。疑問に対して明確な答を示さないばかりか、逆にわからなくなったりする。さらに戯曲を読めば何かわかるかというものでもなく、あるやりとりのなかに、「どうやら●●らしい」、「おそらく○○と思われる」など、劇作家の何らかの意図を見出すことが求められる。この作業は、行間を読むなどという表現が陳腐に思えるほど根気の必要なもので、しかしそれなくしてはピンターを味わうことはできず、しだいにやみつきになるという一種の中毒性をもつのである。
 すんなり理解できるピンターなどピンターではないや、くらいの気持ちになってくるのだ。ピンターは不条理劇の作家だと決めつけ、それですべてが分かったような気になることを、「何よりも我慢できない」(『劇作家ハロルド・ピンター』より)というピンター研究の大家・喜志哲雄さんの戒めは、決して学者先生が不勉強学生を叱咤するものではなく、「こんなふうに考え、戯曲を読み直してみれば、もっとピンターが味わえる!」という快楽へのいざないである。楽しまないで何としよう。

 今回心に染み入ったのは、当日リーフレットに記された内藤裕子の挨拶文である。内藤は、「ピンターの作品ほど、俳優や、観客を信頼して、説明を排除しているものは多くありません。恐ろしいまでの勇気と覚悟をピンターの戯曲を読むたびに感じます。それは表現する私たちにも自ずと求められることでもあります」。
 これを読んで、自分は長いあいだ、内藤と反対のことを考えてきたことに気づいたのである。ピンターが説明を排除しているというのはわかる。しかしそれは俳優や観客を疑っている、というのか、安易なことばづかいや演技、解釈や理解を阻むために、つまり強い警戒や激しい拒絶が根底にあるのではないかと。内藤は、ピンターがわたしたちを信頼していると考える。しかしそこには「恐ろしいまでの勇気と覚悟」があってのことであると。
 なるほどそうやすやすと自然に無理なく相手を信じられるわけではない。あの人に賭ける、思い切って委ねるという勇気と覚悟が必要だ。そんな思いをもって書かれた戯曲なら、辛抱強く読み解き、考え続けることで、きっと進む方向が見えてくるのではないか。

 戯曲に対して、大胆な解釈といえば聞こえがよいが、意図がわからず困惑するような演出の舞台は、はじまってしばらくは新鮮味や刺激を感じるかもしれないが、往々にして息切れし、戯曲の本質から離れてしまうことがある。2010年春に円が上演した『ホームカミング』がまさにそうであった。このとき内藤は演出助手をつとめており、今回の『バースディ・パーティ』への影響を懸念したのだが、まったくの杞憂であった。
 内藤裕子演出の『バースディ・パーティ』、善戦である。この一歩がいつか『料理昇降機』や『背信』などにつながっていくことを想像し、楽しみにしている。 

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