T Crossroad短編戯曲集《花鳥風月》春夏秋冬で1年に渡り、「スタートラフ」として試演が続けられていた『カミの森』の完成版がお目見えとなった。「春」は見逃し、「夏」と「秋」を観劇しているが、物語の新たな展開に身を乗り出したところで「今回はここまで」となるたび、もどかしい思いを重ねてきた。早く続きを観たい。本編に先駆けて観劇した若手劇作家による同テーマの新作戯曲リーディングの印象を大切にしつつ、ひんやりした空気の客席に身を置く。
舞台は薄暗い。中央に大きな切り株のようなものがどっしりと置かれ、周囲には木製の丸い腰かけが点在する。後方全体は紗幕で覆われ、その切れ目から人物が出入りする。タイトルの通り、深い森の中を思わせる舞台美術だ。中央部が明るくなると、大きな切り株の上に白い衣裳のA(今井朋彦)が立ち、教えを説きはじめるが、いつのまにか手持ちカメラ持ったB(堺小春)がその様子を撮影している。
この森で集団生活を送る新興宗教団体の教祖A、ドキュメンタリー映画の監督B、教団事務局長C(大沼百合子)、新参信者D(中田春介)、映画に出演する俳優E(阿岐之将一)、同じく俳優F(高木珠里)、子役の少年G(田中壮太郎)、その母親I(福寿奈央)、そしてゾンビ映画を撮ろうとする映画監督H(加藤虎之介)が登場する。俳優名はスタートラフから変わらず、アルファベットのままだ。といって人物が記号化されているわけではなく、各人の役割(映画監督、子役、その親など)がはっきりしているので混乱はしない。特定の人物への感情移入が自然に抑制されるのか、「どこかに居る誰か」と捉えることができる。
とは言っても物語の設定や背景はなかなか複雑だ。たとえば教祖Aは監督Hの兄である。ふらりと家を出て20年以上音信不通だった兄が弟と再会したわけだが、監督Hは新作のゾンビ映画を作ろうとしており、この森で撮影を行い、信者たちにも出演してほしいと言う。警戒心の強い事務局長Cは意外や、ゾンビ映画に詳しい。新興宗教の教祖にもベテラン映画監督にも物怖じしないドキュメンタリー映画監督Bは、地下鉄サリン事件で肉親を亡くしている。少年Gは母親Iのステージママぶりに辟易しているが、彼女は昔女優を目指しており、映画で息子の母親役をつとめる俳優Fとは劇団研究所の同期だった。女優業を諦め、息子に夢を託す者と、おそらく無名のまま続けている者の自尊心と嫉妬が入り混じる。さらに新参信者Dが実は…といった具合に、家族や兄弟の話と宗教、殺されても死なないゾンビの存在が縦横に絡み合う。劇中劇ならぬ劇中映画によって虚構と現実のせめぎ合いは更に複雑になり、物語の着地点がわからなくなる。
教祖Aは知的な風貌と張りのある声、穏やかな物腰で、新参信者Dに対しても、教理を説くというより「無」に導こうとする。監督Bは兄との距離を慎重に保ちつつも、映画の撮影のために強かに兄を説得し、交渉する。今井朋彦と加藤虎之介の共演を観るのは、21年8月の『4』以来だが、外見は似ても似つかぬ二人のあいだに滲む「兄弟み」が面白い。加藤はNHK朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』の寡黙でニヒルな落語家・徒然亭四草のイメージが浮かぶが、今や貫禄すら漂わせ、これからもいろいろな舞台で観たい俳優だ。
完成版『カミの森』観劇ののち【2】の短編戯曲に進むのが順当と思われるが、自分の場合逆になったことで非常に「おさまりの良い」観劇体験となった。「神」ではなく片仮名の「カミ」が住まう森は、物語冒頭では底知れず不気味であったが、ゾンビ映画の撮影によって混乱し、ほころびを見せたことで温もりを感じさせるものとなった。兄のAと弟のHは、また出会う日が訪れるのではないだろうか。たとえば「カミの街」、「カミの園」などで…?
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