因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

帝劇ミュージカル『モーツァルト!』

2014-11-27 | 舞台

*ミヒャエル・クンツェ脚本・歌詞 シルヴェスター・リーヴァイ音楽・編曲 小池修一郎演出・訳詩 公式サイトはこちら 帝国劇場 12月24日まで 来年1月は大阪・梅田芸術劇場にて上演
 2002年に初演されて以来、05、07、10とタイトルロールを演じてきた井上芳雄が、モーツァルトが亡くなったのと同じ35歳になったということで、今回をもってファイナルステージとなった。まだ東京芸大生だった2000年上演の『エリザベート』での皇太子ルドルフの繊細なイメージから一転、音楽の天才でありながら、やんちゃで向う見ず、浪費家で女好きの青年を堂々と演じるすがたに惚れぼれしたことを思い出す。ミュージカル界のプリンス、シンデレラボーイと言われ、挫折や劣等感とは無縁のスマートで育ちのよい印象があるが、パンフレット掲載の談話で、ダブルキャストだった中川晃教への強烈なライバル意識やコンプレックス、「トイレに行ったら、もう戻りたくないくらい怖かった稽古場」という述懐を読むと、やはりこの世に努力せず成功している人はいない、天賦の才能があっても、それを活かすかどうかは本人の努力しだいだと思わされる。運というものもあるが、それを引き寄せるのも本人がいかに努力し、よい結果を継続して出し続けてこそであろう。同じくパンフレットに掲載の演出・小池修一郎の文章には、12年間あるときは教師のように井上芳雄を叱咤激励し、あるときは父親のように見守ってきた深い思いが溢れる。

 井上芳雄と出会ってからというもの、自分は「好き過ぎる俳優」というものの長短、功罪を考えざるを得なかった。とにかく彼しかみていないのである。『モーツァルト!』はその最たるもので、父親のレオポルド、大司教コロラドは言うにおよばず、妻のコンスタンツェや姉のナンネール、ヴァルトシュテッテン男爵夫人など、ほかの登場人物のことに思いが及ばないのだ、困ったことに。
 ここ数年、井上ひさしの『組曲虐殺』や、『イーハトーボの劇列車』など、歌の場面はあるもののストレートプレイへの出演が増えるにつれて、この傾向もだんだん収まってきたようだが、それでもやはり『モーツァルト!』だけは例外だ。2005年夏の再演のとき、熱に浮かされたような文章を書いたが、あのころの感覚とほとんど変化はない。

 ヴォルフガングの井上芳雄以外で惹きつけられるのは、天才の影アマデである。劇中ひとことも発せず歌いもしない。ほとんど無表情のままヴォルフガングを支配し、ひたすら音楽に殉ずることを求める。とくにすごいのは前半の終幕で、インクの少ないペンにいらつくうち、残忍な笑みを浮かべ、ヴォルフガングの腕にペンを突き刺し、ペン先で何度もえぐるようにしながら曲を書く場面である。音楽のことしか考えていない。痛みに悶えるヴォルフガングなどまったく意に介さず、中腰でペンを走らせる様相は震え上がるほど恐ろしい。

 井上芳雄が35歳になったと聞いて、そう言われればテレビドラマでは子持ちの男やもめを演じてもさほど違和感がない。歌舞伎俳優であれば、10代で初役をつとめた役を生涯をかけて演じつづけることが可能であるが、現代劇ではそうはいかないであろう。モーツァルトの没年と同じ年齢で作品からの卒業を決意したのは賢明である。残念でたまらないが、井上ヴォルフガングの思い出を大切にしつつ、新しいキャストの上演をみるなら今度こそさまざまな人物の心象や造形にも心を向け、この大いなる作品をもっと味わいたい。

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