因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座9月アトリエの会『冒した者』

2017-09-06 | 舞台

*文学座創立80周年記念 三好十郎作 上村聡史演出 公式サイトはこちら 文学座アトリエ 22日まで
 本作は昨年晩秋観劇した笛井事務所公演の舞台が記憶に新しい。原爆投下から7年後を舞台にしながら、いま現在のわたしたちに容赦なく原罪を問いかける強さと鋭さを持つ。

 6月末、新劇交流プロジェクトによる『その人を知らず』(三好十郎作 鵜山仁演出)は3時間30分の長尺であったが、今回はそれより長い3時間50分(間に10分の休憩が2回ある)である。上演時間もさることながら、作品の核が『その人を~』とは異なるため、見る側は、「話を追う」のとは違うエネルギーの使い方を要求される。設定は敗戦から7年後の東京である。戦中戦後をどうにか生き抜いてきたささやかなコミュニティが、たった一人の人物の登場によって、わずか一夜のあいだに、激しく揺れ動き、破壊されていく様相、人々の思想や哲学、心の動き、何を考え、傷つき、絶望したかが、これでもかという激しさと勢いで発せられる。登場人物の誰と誰がこう言ってああなったではなく、「なぜそう言うのか」「どうしてこんなことをするのか」ということをとことん突き詰めて考えねばならないのである。

  舞台美術はシンプルで抽象的だ(乘峯雅寛美術)。相当に急な勾配が作られ、中央に窪みがある。登場人物が長い板切れが動かして食卓らしきものを作ったり、三階建ての建物に9人の人々が住まうという設定を、場面ごとに中央の窪み部分を人物それぞれの居室に見立てる趣向である。床は黒く、舞台全体も暗い。舞台に見入っているうちに、市井の人々の日常の暮しでありながら、中央の窪みが月面のクレーターのように感じられ、どこか別のところへ連れていかれたかのような心持になる。

  重厚、深淵、鮮烈な作品、というより劇作家三好十郎が血を吐くように書き記した戯曲に、渾身の思いで取り組んだことが伝わる舞台であった。とくに「私」役の膨大な台詞は、亡妻へ語りかけながらも客席に向けて発する性質のものであり、舞台の進行役でもある。前述のように足元は急勾配の床、しかも全体が暗いなかで、どの人物も内面の変化が激しく、長時間の演技は、身体的に大変な負荷があったと想像する。笑いが起こるところも随所にあるが、それは人々のやりとりが真剣過ぎてずれてゆき、第三者から見れば滑稽であるためであって、人々はどこまでも必死であり、緩むところなどない。若手、中堅、ベテラン適材適所の配役…などという手あかのついた表現が恥ずかしくなるくらい、俳優諸氏のからだを張ったすがたは涙ぐましいほどであり、俳優だけでなく、ここまで過酷な作品を上演する劇団の意欲と姿勢に対し、頭が下がる思いである。

 ただラストシーンについて、どうしても心に落ちないところがあり、記しておきたい。戯曲の指定通り、つまり劇作家が書いたものを忠実に舞台で表現するのは重要なことであり、演出家の矜持の現れであろう。しかし今回の場合、「須永は先程のままの姿で(中略)モモコはスベリと一糸もまとわぬ裸体で」というト書きとは異なる演出が施された。公演期間中ゆえ具体的な記述は避けるが、なぜこうなったのかという疑問を禁じ得ないのである。見る者それぞれの好みと言われればそれまでなのだが、自分は基本的に舞台で俳優が(とく女優)肌を晒す演出には引く。具体例は挙げないが、これまで必然性のないものをいくつも見てきたためであろう。舞台作りの実際を体験していない者の頭で考えても、そうしない方法があるのではないか。

 ト書きの通りになっていたなら、別の意味で激しく引いたであろうし、しかしト書きに記されているという絶対的な必然性を、なぜ敢えてあのようにしたのか、特に須永役の様相は、劇作家の思いを演出がどのように受けとめ、あの形にしたのかを計りかね、3時間50分を劇世界に心を寄り添わせ、人々に伴走する気持ちで見つめていた熱の落としどころを見失った。この一点が今回の『冒した者』のつまづきであり、ここにこだわってよいのか、前述のように好みの問題として流し、作り手の誠意と熱情を素直に受けとめればよいのか、迷いのなかにいる。

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