*COLLOLリーディングrecall:5 公式サイトはこちら 9月28日のみ アップリンク・ファクトリー
田口アヤコが3人の俳優を相手に1時間1本の作品をひと晩に3本連続で読む試み。
自分は『蜘蛛女のキス』と『星の王子さま』の2本をみた。
東急本店の裏通りを歩くのはおそらく初めてである。表の喧騒が嘘のように静かで暗い。アップリンク・ファクトリーはレストランやギャラリー、今夜のような演劇や映画の上映もする盛りだくさんなスペースで、狭い通路にはイベントのチラシがずらりと並んでいる。劇場は天井が低く、初めて足を踏み入れた場所なのに居心地がよい。飲み物を片手に開演を待つ。
マヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』はなかなか厄介な作品だ。中心になるのは独裁政権下の刑務所の監房の一室で、ゲイのモリーナと政治犯のバレンティンが交わすやりとりである。ト書きや地の文がまったくない。かと思うと刑務所長と看守やモリーナの会話は戯曲形式で書かれている。更に手紙や報告書などもあって、読者が容易に読み進むことを拒否しているかのようである。
本作はミュージカルとストレートプレイ両方をみたことがある。前者は極上のエンターテイメントであり、後者は息苦しくなるほどの会話劇であった。同じ作品でこうも違う作り方ができるのかと驚いたが、いずれも『蜘蛛女のキス』の何に魅力を感じたのかが客席に伝わってきて、強く印象に残っている。
リーディング冒頭、舞台には田口アヤコと満間昴平が文庫本を持ってはいるものの、起き上がったり寝転がったりしながら「おはよう」「おはよう」と繰り返し、一向に読み始める気配がない。劇場に入ったときの期待感が次第に困惑と疲労に変っていく。作品の世界をどのように提示するかは、作り手の手に委ねられている。見る側としては、それを思い込みや偏見なく、何とか素直に受け止めたいと思う。予想外の演出に出会ったときも、すぐに意味や意図、効果を求めるのはよそうと。
赤川次郎が9月10日付の朝日新聞掲載「劇場に行こう!」で鈴木聡作、河原雅彦演出の『斉藤幸子』への戸惑いを「演出とは『変ったことをやる』のではなく、まず『普通に、当たり前に台本を再現すること』だと思う」と述べている。何をして「変ったこと」であり、「普通に」「当たり前に」とするかは難しいし、今回は小説をリーディング形式で上演するのであるから「台本」とは違う。しかし冒頭の「おはよう」が延々と続くうち、次第にからだ中の水分が足元に降りて来てふくらはぎがだるくなり、「普通にやってくれないかなぁ」と思い始めるのだった。まったくもってリーディング公演は作る方も見る方も難しい。「普通に」(そのまま)読まれたのでは「何の工夫もないではないか」と物足りないし、あまりに手を加えてあると「いっそ本式になされば」引いてしまうし、突拍子もない趣向に最初は驚いても、そこから作品に深く踏み込んでいかない演出は楽しめない。
先日発行した因幡屋通信33号を読んだ方から『ブラックバード』評について、「このところリーディング公演に関しての文章が増えてきて、今度はとうとう戯曲そのものについて書いてしまった。あなたが演劇に対して並々ならぬ思いを抱いているのは充分承知しているが、この地点からさらに反転してなぜ演劇なのか、戯曲なのか。そこを読んでみたい」というご意見をいただいた。
大変な課題を与えられた。その答の足がかりを得るべく、劇団劇作家公演『劇読み!vol.3』に行くことを決めた。
田口アヤコが3人の俳優を相手に1時間1本の作品をひと晩に3本連続で読む試み。
自分は『蜘蛛女のキス』と『星の王子さま』の2本をみた。
東急本店の裏通りを歩くのはおそらく初めてである。表の喧騒が嘘のように静かで暗い。アップリンク・ファクトリーはレストランやギャラリー、今夜のような演劇や映画の上映もする盛りだくさんなスペースで、狭い通路にはイベントのチラシがずらりと並んでいる。劇場は天井が低く、初めて足を踏み入れた場所なのに居心地がよい。飲み物を片手に開演を待つ。
マヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』はなかなか厄介な作品だ。中心になるのは独裁政権下の刑務所の監房の一室で、ゲイのモリーナと政治犯のバレンティンが交わすやりとりである。ト書きや地の文がまったくない。かと思うと刑務所長と看守やモリーナの会話は戯曲形式で書かれている。更に手紙や報告書などもあって、読者が容易に読み進むことを拒否しているかのようである。
本作はミュージカルとストレートプレイ両方をみたことがある。前者は極上のエンターテイメントであり、後者は息苦しくなるほどの会話劇であった。同じ作品でこうも違う作り方ができるのかと驚いたが、いずれも『蜘蛛女のキス』の何に魅力を感じたのかが客席に伝わってきて、強く印象に残っている。
リーディング冒頭、舞台には田口アヤコと満間昴平が文庫本を持ってはいるものの、起き上がったり寝転がったりしながら「おはよう」「おはよう」と繰り返し、一向に読み始める気配がない。劇場に入ったときの期待感が次第に困惑と疲労に変っていく。作品の世界をどのように提示するかは、作り手の手に委ねられている。見る側としては、それを思い込みや偏見なく、何とか素直に受け止めたいと思う。予想外の演出に出会ったときも、すぐに意味や意図、効果を求めるのはよそうと。
赤川次郎が9月10日付の朝日新聞掲載「劇場に行こう!」で鈴木聡作、河原雅彦演出の『斉藤幸子』への戸惑いを「演出とは『変ったことをやる』のではなく、まず『普通に、当たり前に台本を再現すること』だと思う」と述べている。何をして「変ったこと」であり、「普通に」「当たり前に」とするかは難しいし、今回は小説をリーディング形式で上演するのであるから「台本」とは違う。しかし冒頭の「おはよう」が延々と続くうち、次第にからだ中の水分が足元に降りて来てふくらはぎがだるくなり、「普通にやってくれないかなぁ」と思い始めるのだった。まったくもってリーディング公演は作る方も見る方も難しい。「普通に」(そのまま)読まれたのでは「何の工夫もないではないか」と物足りないし、あまりに手を加えてあると「いっそ本式になされば」引いてしまうし、突拍子もない趣向に最初は驚いても、そこから作品に深く踏み込んでいかない演出は楽しめない。
先日発行した因幡屋通信33号を読んだ方から『ブラックバード』評について、「このところリーディング公演に関しての文章が増えてきて、今度はとうとう戯曲そのものについて書いてしまった。あなたが演劇に対して並々ならぬ思いを抱いているのは充分承知しているが、この地点からさらに反転してなぜ演劇なのか、戯曲なのか。そこを読んでみたい」というご意見をいただいた。
大変な課題を与えられた。その答の足がかりを得るべく、劇団劇作家公演『劇読み!vol.3』に行くことを決めた。
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