因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

ハイバイ『て』

2009-10-03 | 舞台
*岩井秀人作・演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場小ホール 12日まで
 実を言うと、池袋の東京芸術劇場にいい思い出がないのである。中劇場、小ホールいずれも背中がスースーして居心地が悪い。これはほとんど瞬間的な感覚だ。たとえば今は閉館してしまった三百人劇場では、たとえその日の芝居があまり楽しめなかったとしても、劇場の空気はいつも温かく、親しい家族のうちを訪れてしばし過ごしたのち家路に着くような心持ちになったものだ。昴の硬質で誠実な芸風が好きなことも大きい。しかしその昴でさえ、小ホールで上演された『ゴンザーゴー殺し』を自分は楽しめなかった。芝居そのものというより、劇場が肌に合わないのである。ああ何てことを。さらにハイバイの舞台は本作で3度めになるのだが、前回がいまひとつであり(デビューの『おねがい放課後』は遂に記事書けず)、まだはっきりした印象を持てないでいる。劇場と劇団、苦手の二重苦だ。野田秀樹が芸術監督に就任してから今回が初めての東京芸術劇場観劇になる。さてどうなるか。
 対面式の舞台、両サイドには椅子や小道具などが置かれている。客席は適切な段差がきちんと作られていて見やすい感じだ。開演直前喪服に遺影を持った女性(菅原永二/猫のホテル が女装している)が現れ、携帯電話の電源を切るなどの注意事項を話し、「上演時間は1時間40分から50分を目指しています」と決意したように言う。役者としてというより、劇中の人物として話していると感じた。既に妙な雰囲気。しかし悪くないぞ。

 祖母の葬儀の場面から始まり、その前に久しぶりに一家が集まった日に遡ったところから家族の一週間くらいの日々が描かれる。おもしろいのは同じ場面を、次男の視点から描いたのち、今度は母の視点から描いている点だ。次男と友達が話していたとき、母親と娘はこんな会話をしていたのか。家族でカラオケに興じているときに母親と長男が目を合わせるのはこんな理由があったのか等々。認知症を患う祖母の介護や、家族をずっと暴力的に支配してきた父親への確執、きょうだい同士のわだかまりの描写は、些細なことすら許容できず、互いの思いの違いや溝の深さがあらわになることをこれでもかと示している。たとえば祖母の家の応接間に車の備品を乱雑に置いている兄への不満や、バンドのギターボーカル(ただのボーカルとは違うらしい)をしている自分にカラオケで歌うことを執拗に勧める姉への怒りであったりする。第三者には「それくらいのこと」であっても、当人たちにしてみれば絶対に譲れず許せないのだろう。

 苦手の二重苦はいつのまにか吹っ飛んで、登場人物の視点によってさまざまに色合いを変える舞台に引き込まれていった。出演者はハイバイ所属の俳優、客演陣含め、下北沢の駅前劇場やOFFOFFシアター、あるいはこまばアゴラ劇場でしょっちゅうお目にかかっている面々である。しかしこれらの劇場よりも、今回の東京芸術劇場小ホールでの上演のほうが新鮮で緊張感があり、「いつも行く劇場」「そこでよく見る顔」とは違った魅力が加わっていたのではないか。1回の観劇だけで判断してよいものかはわからないが、東京芸術劇場の空気が変ったことを、この日自分は確信した。これが第一の収穫である。

 第二の収穫(といっていいのかはわからない)は、家族というものが時に非常に陰惨であり、年月が経って状況が変わっても、その人の本質は変りようがなく、どれほど言葉を尽くしても伝わらず、理解の及ばない事実を思い知らされたことだ。山田家の家族関係は、ある意味絶望的である。しかし諦めざるを得ないことが逆に救いではないのだろうか。希望に決別することによって、山田家の人々はどうにか生き続けていけるように思う。本作は岩井秀人自身の家族の話であり、北九州公演では母親の役を岩井が演じるという。辛くないのだろうか。そうすることによって、彼が少しでも楽になれれば自分は嬉しい。今回の『て』に対して「また自分の話、家族の話か」とは思わない自分に気づいた。これは第三の収穫であろう。

 
 
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