*寺山修司作 明神慈(ポかリン記憶舎)演出 公式サイトはこちら シアタートラム
ずっと以前T.P.T.公演の『白夜』をみたことがある。ギターの低い調べが耳に残っているが、詳しいことは記憶にない。姿を消した妻を探し続ける男がたどりついたホテルの一室で過ごす一夜の物語である。
舞台中央に椅子が2脚、背中合わせに置かれ、上手後方に1脚。中央の椅子には主に猛夫(三村聡/山の手事情社)が座る。後方の椅子にはト書きを読む佐戸井けん太が座り、彼の傍らに隣室の女役の中島美紀(ポかリン記憶舎)が寄り添う。『白夜』のト書きは細やかで情感があり、それだけで一編の詩のようである。またそれを読む佐戸井けん太の、何と魅惑的なことか。この作品はト書きを読まなければ(聴かなければ)、その魅力、美しさを知ることができないのではないかとすら思った。時折、中島美紀が消え入るような声で佐戸井と一緒にト書きを読む。ト書きが息をしている。そう感じた。
リーディングには、時として演出家のカラーが強く出てしまうことがある。「自分の読み方はこうなのだ」という主張が強すぎると、つまり演出をつけすぎると、戯曲の魅力を損なうばかりか、ひとりよがりの思わせぶりに陥ってしまう。明神慈の『白夜』には、それをまったく感じなかった。前述のト書きを読む中島美紀や、宿屋の女主人を太田宏(青年団)、女中を日下部そう(ポかリン記憶舎)と男性が演じることなどに今回の演出の特徴があるのだが、それらは演出家の主張や解釈を示す手段ではなく、明神慈が『白夜』という戯曲を読んで感じたものが自然に表われていると思えた。
物語が終わって俳優が整列する。佐戸井けん太が演じた役と俳優名をひとりひとり読み上げる。俳優は台本を持った手を軽く胸のところに当て、台本を持たない中島美紀は腕を舞いのように軽くゆるやかに動かす。動作のひとつひとつが抑制されて美しい。音楽を聴いているような、緩やかなダンスをみているような、夢のような夜であった。
ずっと以前T.P.T.公演の『白夜』をみたことがある。ギターの低い調べが耳に残っているが、詳しいことは記憶にない。姿を消した妻を探し続ける男がたどりついたホテルの一室で過ごす一夜の物語である。
舞台中央に椅子が2脚、背中合わせに置かれ、上手後方に1脚。中央の椅子には主に猛夫(三村聡/山の手事情社)が座る。後方の椅子にはト書きを読む佐戸井けん太が座り、彼の傍らに隣室の女役の中島美紀(ポかリン記憶舎)が寄り添う。『白夜』のト書きは細やかで情感があり、それだけで一編の詩のようである。またそれを読む佐戸井けん太の、何と魅惑的なことか。この作品はト書きを読まなければ(聴かなければ)、その魅力、美しさを知ることができないのではないかとすら思った。時折、中島美紀が消え入るような声で佐戸井と一緒にト書きを読む。ト書きが息をしている。そう感じた。
リーディングには、時として演出家のカラーが強く出てしまうことがある。「自分の読み方はこうなのだ」という主張が強すぎると、つまり演出をつけすぎると、戯曲の魅力を損なうばかりか、ひとりよがりの思わせぶりに陥ってしまう。明神慈の『白夜』には、それをまったく感じなかった。前述のト書きを読む中島美紀や、宿屋の女主人を太田宏(青年団)、女中を日下部そう(ポかリン記憶舎)と男性が演じることなどに今回の演出の特徴があるのだが、それらは演出家の主張や解釈を示す手段ではなく、明神慈が『白夜』という戯曲を読んで感じたものが自然に表われていると思えた。
物語が終わって俳優が整列する。佐戸井けん太が演じた役と俳優名をひとりひとり読み上げる。俳優は台本を持った手を軽く胸のところに当て、台本を持たない中島美紀は腕を舞いのように軽くゆるやかに動かす。動作のひとつひとつが抑制されて美しい。音楽を聴いているような、緩やかなダンスをみているような、夢のような夜であった。
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