因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

あうるすぽっと+毛皮族共同プロデュース『じゃじゃ馬ならし』

2014-11-20 | 舞台

*あうるすぽっとシェイクスピアフェスティバル2014 (1,2,3
 ウィリアム・シェイクスピア原作 松岡和子翻訳 江本純子(毛皮族)脚色・演出 公式サイトはこちら あうるすぽっと 24日まで
『じゃじゃ馬ならし』をはじめてみたのは、冗談でなく30年も前のシェイクスピアシアター公演、出口典雄演出の舞台であった。『十二夜』や『夏の夜の夢』などにくらべて、内容も描写もしっくりせず、あまり気持ちのよい話ではなかった。
 今回の公演チラシにも「世界中のフェミニスト達から総スカンを喰らうシェイクスピアの問題作」とあるように、どんな物語かをひと言で言えば、男性が女性を一方的に支配せんとする話なのだから。
 シェイクスピアの喜劇のなかでは、作り方がむずかしい作品になるのかもしれない。原作に忠実にすればするほど、フェミニストでなくても素直に受け入れるには困難な内容であるし、そこを作り手がどう捉えるか、どのように見せたいかがより重要視されるのではないか。
 公演チラシの表面には、シェイクスピア風の鬘をつけ、髭を生やした江本純子の顔に「書きかえと演出・江本純子」と記されている。今で言う「こじらせ女子」の一種になるのだろうか、ヒロインのキャタリーナに鳥居みゆき、彼女を調教せんとするペトルーチオに柄本時生を据え、市川しんぺーや寺十吾、玉置孝匡、金子清文、江本純子も出演する。
 フェスティバルHPにおける江本純子、鳥居みゆき、柄本時生の対談や、「人間の動きにこだわりたい」という朝日新聞掲載の江本純子のインタヴューを読むと、原作への違和感をどうやって自分流のシェイクスピアにしたいか、配役の妙、挑戦の姿など、非常に興味と期待を掻きたてるものであった。
 どれだけ原作戯曲を書きかえ、どのように遊ぶのか。

 残念ながら今回の舞台からは、じゅうぶんな手ごたえが得られたとは言いがたかった。「イメージ通りの解釈・配役では朗読劇にしかならない。色々なものを覆した状態を作りたい」(前述の朝日新聞より)という意気はすばらしい。しかし率直に言って、「色々なものを覆して、そのまま散らかっている」印象だ。予定調和が欲しいのでもなく、自分が観劇前に描いていたイメージと違うということではない。江本純子が書きかえて演出し、鳥居みゆきや柄本時生が出演する『じゃじゃ馬ならし』、とても想像はできない。だからこそ自分の観劇歴にある本作のイメージは敢えて捨て、今回の舞台に臨んだのだが。

 柄本時生のペトルーキオは殴るけるなどの直接的な暴力こそふるわないが、妻キャタリーナの一言ひとことを否定し、理不尽な命令を重ねる。妻をことばで傷つけるDV夫ふうの不気味な雰囲気を醸しだしている。鳥居みゆきのキャタリーナは、夫の仕打ちに対して、こちらが思うようなベタな反応をしない。むろん傷ついており、空腹や疲労に必死で耐えているのはわかる。なぜ逃げ出さないのか、はっきりと反論しないのか、不思議に思わせる。つまりこれが終幕において、夫への従順こそが妻の幸せであるという彼女の大演説に結びつくのだろうか。ほんとうは彼女はどう思っているのか。
 江本純子は「彼女は怒っているとしか思えない。何かをきっかけに漏れてしまった」と読む。この視点は非常におもしろく、重要だ。(江本が「漏れる」ということばを使った意味が実はわからないのだが)。
 自分の感情を押し殺し、敢えて心を壊すことで、通常なら耐えられない状況を是としているのなら、キャタリーナは昔もいまも存在する暴力・暴言をふるう夫に苦しむ妻が、現状からの逃げ道のひとつとして従順な妻を演じるという病理を示しているのではないだろうか。

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