*三谷幸喜作・演出 公式サイトはこちら PARCO劇場 3月5日まで その後新潟、松本、大阪、宮城、兵庫、那覇を巡演。
1996年初演、1998年アンコール上演され、大評判を得た
1996年初演、1998年アンコール上演され、大評判を得た
西村まさ彦(当時雅彦)と近藤芳正共演の舞台(山田和也演出)の観劇は叶わなかったが、テレビの舞台中継の録画を繰り返し視聴した。PARCO劇場開場50周年記念シリーズと銘打った25年ぶりの再演は、検閲官向坂を内野聖陽、劇作家椿を瀬戸康史が演じ、三谷みずからが演出する。
無駄や隙のない演出に俳優ふたりが見事に応え、台詞の間合いや緩急、表情や仕草の一つひとつが舞台に良きリズムを生み、客席も大いにわく。ただし前記のように録画を何度も視聴したため、物語の流れ、やりとりなど覚えてしまっている場面も少なからず。初観劇の新鮮な驚きやおかしみはなく、周囲ほど笑えわなかったことは確かである。しかし話を知っていることは観劇の妨げにはならず、安定した心持と、「あの場面は今回どうなるのか」という期待で最後まで楽しむことができた。完成度の高い舞台を満員の劇場で味わう充実感である。
向坂が最後に突きつけた「笑いの無い喜劇を書け」という難題に椿が提示した答については、舞台中継視聴時と同じく、受け止めきれない感覚があった。それは椿に訪れた否応ない運命のためであり、「十中八九上演許可は得られないし、もう自分は浅草に居ないのだから、書けることは全部盛り込んだ」という捨て身の現れか。しかし椿なら、いや三谷幸喜なら、「笑いの無い喜劇」という検閲側の挑戦に応える台本が書けるのではないか。さらに言えば、当初は上演中止に追い込む意図が、無意識に抱いていた喜劇的センスが掘り起こされ、劇作家を触発し、期せずして芝居がどんどん面白くなって本人もやる気に溢れていた向坂が、最後に豹変して椿にこの矛盾に満ちた難題を突き付ける展開が、自分には唐突に思えてならないのである。最大限期待させて、最後に突き落とすのが向坂流の「落し」の技なのだろうか。
朝日新聞木曜夕刊に連載中の「三谷幸喜のありふれた生活」に、このたびの『笑の大学』再再演について2回に渡って記されている。自ら演出し、舞台美術も照明、衣装、音楽も全てリニューアル、「ガラリと趣を変えたラストシーン」とある通り、最後の最後で向坂がこう来るかと「やられた」感を味わった初演とは異なり、ややセンチメンタルな印象であった。残念だが、西村まさ彦と内野聖陽の芸質の違いとあれば致し方ないか。
本作はもともと坂東三津五郎(当時八十助)と三宅裕司共演のラジオドラマだった由。何とネットで聴ける!三宅が劇作家で八十助が検閲官と予想したら、逆だった。さきほどから聴いている。舞台鑑賞の印象が変わるか、いや変わらないか、どちらになっても、宝物がひとつ増える予感がする。
劇場ロビーに展示の堀尾幸男作・舞台美術のミニチュア
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