*公式サイトはこちら 下北沢「劇」小劇場 26日終了
ユダヤ系イスラエル人作家エイナット・ヴァイツマンがパレスチナ人の囚人たち(元・現在いずれも)と作り上げたドキュメンタリー演劇『Prisoners of the Occupation』、ヴァイツマンとSNS投稿が原因で逮捕、収監された詩人ダーリーン・タートゥールによる独白劇『I,Dareen T.』が本邦初演の運びとなった。日本の制作者陣が現地での滞在制作を行い、パレスチナ人俳優のカーメル・バーシャーを日本に迎えての上演である。翻訳・ドラマトゥルクは渡辺真帆、演出は文学座の生田みゆき(1,2,3,4,5,6,7)。生田は2020年2月の同事務所パレスチナ演劇上演シリーズで『帽子と予言者』『鳥が鳴き止む時-占領下のラマッラー-』2本立ての演出を担っている。
「パレスチナ演劇」と聞くと、社会性や政治性に宗教が絡んだ特殊な作品であるとつい身構えてしまうが、挑戦を厭わない強靭な姿勢と同時に、やはり作り手にも困惑や葛藤があって、それらを丸ごと作品にぶつけ、劇中に入り込み、そこから生まれ出たものは客席の心を鷲づかみにし、日常感覚を揺るがせる。こんな酷いことが現実に起こっているとは俄かに信じられないほどだが、わたしたちと同じ人間がしていること、されていることなのだ。脅されれば怖い、殴られれば痛い、侮辱されれば怒りが沸く。安全な劇場で俳優の演じる芝居を観ているが、登場する彼等はいまだに刑務所に収監されているのだと考えると胸が痛み、無力感に苛まれる。
当日パンフレットには、「『Prisoners of the Occupation』東京版」と明記されている。いろいろな機材が剥き出しの舞台で、俳優たちがテーブルを組み立てて、逮捕された男の尋問を始める。はじめは柔らかな口調だが、「ハサンという男」に話題が移り、男が口をつぐんでから、場面は一気に暴力的になる。パレスチナの成人男性の4人にひとりは収監経験があり、パレスチナ人であるだけで習慣の理由になるという占領下の現実とはこのことか、これがずっと続くのかと身構えると、少し離れてその場を見ていたカーメルが俳優に「もっと激しく」とコメントする。英語である。日本人俳優も英語で応えるが、舞台正面の幕に的確なタイミングで字幕が出るので、わかりやすい。日本人俳優が現地入りの空港での緊張と弛緩、街の様相など映像も用いながら、公演チラシに記された「現地滞在制作」の過程も劇中で描くという趣向である。「東京版」の意味はこういうことであったのか。
ひところ「ドキュメンタリー演劇」という言葉をよく耳にしたのは、2011年の東日本大震災・東京電力福島第一原発事故のあとであったか。現実に起こっていることを舞台で描く。作り手自身の創作の過程、葛藤そのものを舞台で表現する。ヒリヒリするような皮膚感覚と、作り手と観客が「今、ここ」の問題を共有する緊張感や、否応なく手渡される問題意識など、得たものはさまざまであった。
『Prisoners of the Occupation』東京版は、創作過程が描かれているところと、そこから劇中への移行あるいは行き来が実に自然であざとさがなく、作品自体が本邦初演であることに加え、この東京版が2023年に日本で上演された唯一無二の舞台であると確かに提示するものであった。冒頭の過酷な尋問から、胸が締めつけられるような家族との面会など辛い場面が続くが、囚人たちがハンストを決行する場面はコミカルですらあり、客席からは笑いも起こるが、やはりこの場も想像を絶する凄惨な状況に陥る。
舞台には小さなカメラが据えられ、独房に入れられて、客席からは見えない囚人の様子が映し出される。粗い映像が囚人の苦痛を生々しく見せるが、どこか「別の場所感」というのか、奇妙な時空間を生み出す。映像と舞台上の独房の装置、格子の間からわずかに見える囚人の様子を見比べながら、どちらがリアルなのか、彼らが押し込められている牢獄と、自分が今居る劇場がより遠く感じられること、逆に両者が交じり合う不思議な感覚があった。
10分の休憩が終わりに近づいたころ、森尾舞とカーメル・バーシャーがまだ暗いままの舞台で装置などの準備らしきことを始めた。そろそろ開演かと姿勢を直そうとしたら、森尾がまだ休憩中であること、ただの準備なのでどうかゆっくりといったことを客席に語りかける。バーシャーとの短いやりとりも聞こえ、楽しそうである。わざわざ断らずともよいと思われるが、客席への気づかいなのか、それとも演出なのか。2本めの『I,Dareen T.』を前に、微妙な違和感がわきはじめる。
やがて森尾はみずから開演を告げ、自己紹介に続いて本作の作者たちがどんな人物であるか、初対面の様子がどのようであったかを語りはじめた。二つの椅子と黒革のジャケット、白いヒジャブで人物を演じ分け、会話の場面を描く。作者のダーリーン・タートゥールが逮捕、収監され、あちこちの収監施設を移送のたび、執拗に受ける屈辱的な身体検査、それによって呼び起こされる少女時代のトラウマ、独房がいかに冷たく不潔であるかなど、台詞によって事細かに表現される。彼女ひとりが語って演じる「独白劇」によって、収監された彼女の孤独や絶望、そこから立ち上がろうとする意志がいっそう強固に描かれている。いわゆる「一人芝居」とは違うアプローチであり、メッセージ性がある。
この独白劇も「東京版」であり、「森尾舞」版であると言えよう。作者と彼女を巡るパレスチナの人々の視点に、2023年の日本の東京で演じる日本人俳優の森尾舞の視点が加わることで、やはり本作も唯一無二の舞台となった。森尾が俳優の歩みを続けるなかで本作に巡り合ったこと、演じる覚悟や熱意が伝わる。ただ休憩途中に覚えた違和感は、劇中に森尾舞自身のことが語られる箇所で同様にあり、どうしても必要な表現であったのか。前振りをせず、自らを語らない形での上演もありうるのではないか。かの地の女性たちの物語を、2023年の今、日本人の俳優が日本語で語っている。その人が目の前にいるだけで十分だと思うのだが。
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