*三澤さき(ゲンパビ 1,2,3,4,5)企画 屋代秀樹(日本のラジオ 1,2,3,4)作 奥村拓(オクムラ宅 1,2,3,4,5,6)演出 公式サイトはこちら 池袋/スタジオ空洞 2月1日19時30分1回のみ
登場人物はマーティン・ブラウン(三瓶大介)とノーマ・ブラウン(岸野聡子/味わい堂々)の夫婦に、マーティンの弟のブライアン(堀靖明)。彼が連れて来た恋人のメアリー・ベル(三澤さき)、ノーマの幼なじみで町医者のジェイムス(澤原剛生)、警官(横手慎太郎)の6人である。人物の名前からして舞台は日本ではないが、アメリカともヨーロッパともわからず、時代の設定も不明。少なくともパソコンやスマホは出てこない。
おそらく小さな町であろう。夫のマーティンは画家、妻のノーマは病院の看護士だ。子どもはなく、ささやかな暮らしぶりだが幸せそうである。そこへ両親の離婚のために長いこと離ればなれになっていた弟のブライアンが、恋人のメアリー・ベルを連れてころがりこんできた。一夜明けた朝から数日間の物語である。
料理上手で心優しいノーマの少女時代にまさかの事件があり、町の人々は皆それを知っていて口にしない。折しも町には子どもの行方不明事件が頻発するようになる。メアリー・ベルの出現によって過去が暴かれ、ブラウン夫妻のあいだに亀裂が入る。危ういながらも保たれていたコミュニティーが壊れてゆくさまは、アドム・エゴヤン監督の映画『スウィートヒアアフター』を想起させる。
この公演がなぜ1回限りなのか。チラシには鋏のイラストに「断髪演劇」のコピーがあるので、およそ想像がつき、実際その通りであった。これをどう捉えるか。
劇中に出演俳優の髪を切る。ウィッグではなく、自前の自毛であるから1回しかできない。そこに「レア感」があるのはたしかだが、ちがう方法もあるのではないか。何回か上演があれば、客席の様子を見ながら演出の手直しもでき、俳優の演技もこなれてくる。観客としても観劇日が選べるほうがありがたく、舞台の変容を味わいに再び足を運ぶこともできる。1回限りという特徴が、物理的な面に主たる理由があるとすれば少し残念であるし、もったいない。それほど作、演出とも刺激的で、俳優陣も健闘していた。
屋代秀樹の舞台で印象深いのは、昨秋上演の『ココノ イエノ シュジンハ ビョウキデス』である。日常会話のトーンで淡々と進む物語が、次第に猟奇的な展開を見せ、最後に悲痛な終幕を迎える様相は、舞台美術、俳優の演技ともに緻密に構成されており、緩みやほころびの入る余地がないと思われるものであった。
対して奥村拓に演出を委ねた今回の舞台は、劇作家・屋代秀樹にとって新境地への方向性を探る一歩になったのではないか。それを強く感じたのは俳優の演技である。これまで奥村拓演出において、どういうわけか極端に明るかったり、キレ気味の演技をする登場人物がおり、たしかに観客の目を引く効果はあるけれども、劇ぜんたいから見て必然があるのかわかりかねることがあった。今回で言えば、弟のブライアンである。久しぶりに再会した兄のマーティンへの遠慮からか、ぎくしゃくした不自然な口調で、必要以上に激しく叫ぶ。「親切は目減りするんだ」。彼の決め台詞である。これが単に言い方がおもしろいということを突きぬけて、うまく書けないが、この『マリーベル』を構成する上で、何らかの必然、効果を生み出していたと思われる。
ただ終幕において、突如iPhone(?)が出てきたのには驚いた。ブライアンから音楽を聴かされたメアリーが狂ったように歌い、テーブルの周りを走る。それをブライアンが執拗に追いかける様子にも違和感があり、この物語は別の閉じ方があるのではないかと思わされる。また子どもの行方不明事件の真犯人があの人物であったというオチを観客が受け入れるには、控えめであってもよいと思うが、あとひと息エピソードなり、台詞なり必要ではないか。警官役の横手慎太郎は、数日前にシンクロ少女の公演を終えたばかりで今回早々の新作出演である。出番は決して多くはないものの、しなやかで達者であって嫌味にならない造形は実にみごとであった。それだけにあと少し、欲しいのである。
企画者である三澤さきは、当日リーフレットに「今回ここに参加してくれている人たちは、心の底から大好きと叫べる人たちです」と記している。その気持ちが強く伝わってくる舞台であり、気持ちの良い夜になった。これからも俳優、劇作家、演出家、スタッフが、劇団やユニットの枠を越え、「こんな舞台をつくりたい」という願いが実現することを祈っている。
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