*長田育恵脚本 扇田拓也演出 公式サイトはこちら 座・高円寺1 4日で終了(1,2,3,4)
一昨年秋、下北沢「劇」小劇場で初演された作品が好評を博し、7月に京都芸術センター、つづいて座・高円寺において再演の運びとなった。よい評価を得たからといってすぐに再演できるわけではなく、人のこと資金のことなど、さまざまな問題をのりこえねばならないだろう。筆者にその詳細は想像もできないが、「劇」小劇場でみたささやかな劇世界が、より大きな舞台でより多くの観客に手渡されることを祝福したい。実現してよかったです。
初演を観劇したときの筆者のコンディションは、あまりよいものではなかった。早朝から夕刻まで用事をふたつみっつ済ませ、ようよう千秋楽の客席にすべりこんだのである。小さな劇場の中央に演技エリアを据え、そこを両側から客席がはさむ形は、拾困憊の果てにやってきた身には少し息苦しく、からだの疲れが頭も心もぼんやりさせてしまった。
広々とした座・高円寺は、やはり対面式の客席になっており、中央には重厚な手触りを感じさせる木製のステージがこれからそこを歩く人々を支えるべく、しっかりと置かれている。上手と下手にはすだれやよしずのようなもので囲まれた小さなスペースがあり、淡い灯が灯る。つぎに登場する人物の待機スペース風になっており、大正から昭和のはじめの市井の人々の息づかいを感じさせる。
上演する劇場が大きくなると、演出家としてはどのようなことを注意するのか。具体的なことはわからないが、高い天井や左右の広さを活かし、密度の濃い場面はいっそう濃厚に、人々が海を眺めるときはほんとうに涼しい海風が吹きわたるかのように、どしゃ降りの雨の下関駅の喧騒も夕暮れの写真館も、演劇はかくも自由に時間や空間をとびこえることができるのかと、目を開かれるようであった。
俳優は主演の石村みかが圧倒的にすばらしい。俳優にとって、「当たり役」をもてるかどうかは本人の資質に加え、劇作家、作品、演出家との出会いが不可欠であろう。石村みかの金子テルはまさに当たり役である。しかし「当たり役」ということばでひとくくりにするのは申しわけなく、、もっと深く温かな祝福に満ちたものがある。俳優という仕事を選んだ女性として、大変な幸福であろう。
またテルを陰に日向に支える上山文英堂の番頭候補・持井さんを演じた久保貫太郎が忘れられない。ことさら特別で複雑な造形ではないのに、舞台に出てくるだけであふれるお湯のような安心感があり、「テルのそばにこの人がいてくれてよかった」と心底ほっとさせてくれるのだ。このような存在のしかたはなかなかできるものではない。
本作は不幸な結婚の様相を痛ましく描いたものでもある。夫(大場泰正)は妻に向かって、盲人が杖にすがるごとく男を信じ、甘え、泣きつくのが妻の役目、女の才能だと言う。一人むすめに教育を受けさせたいと切望する妻に、教育がおまえからふつうの女の可愛げを消し去った、教育のせいで女としてはとんだ欠陥品になったのだと罵倒する。
これらの台詞を聞いて、宮尾登美子の小説『櫂』を思い出した。これは身も蓋もない言い方をすると結婚に失敗した女性の話である。まだ若いが男の苦労をさんざん重ねてきたと思われる芸妓が主人公の喜和にこんなことを言う。「男というものは、立てて、頼って、縋って、信じてさえおれば、女子(おなご)を悪うには扱わんのと違いますか」
いまの時代であってもたぶん違わない。そのとおりだろう。
7月の京都公演、先日幕を閉じた東京公演ともに、多くの人に感銘を与えた。さまざまなウェブサイトやツイッターの書きこみは、この詩情あふれる舞台を、戯 曲、演出、俳優の演技すべてにおいてほぼ異口同音に称賛するものだ。したがってもうこの場で新たに記すこともなかろうかと、それがせっかく初日に観劇して いながらつい筆が鈍った理由でもある。ああ、言い訳ですね。てがみ座の舞台に対して、違和感というほどではないのだが、はっきりと自覚できるある感覚があり、それを単に自分の好みかそうでないかと片づけるのは少し悔しく、ことばにできるかどうかが今後の課題になるだろう。
因幡屋さんのてがみ座に対する違和感と関係するかどうかは分かりませんが、私は今作に「“詩”が沁みてこない、詩の言葉が届いてこない」という違和感(というか、汚い言葉ですが残尿感)を感じました。それがおざなりというか、演出的に脇に置かれてしまったのかなあとを感じながらの観劇でした。
当ぶろぐへのお越し、ならびにコメントをありがとうございました。お返事がすっかり遅くなりましてすみません。
金子みすゞを題材とするとき、みすゞその人を中心にするのか、詩の世界を前面に押し出すのかは作り手にとって悩ましいものだと思います。
長田育恵さんは、震災直後のACのCMでみすゞの「こだまでしょうか」が多用されたことに対する違和感があり、等身大のドラマにしたいと思ったと、若手劇作家の座談会で語っておられました。
今回の舞台はみすゞが生身の俳優の肉体と声をもって舞台に立つこととによって、詩の世界がよりいっそう瑞々しく感じられたのですが、yosiyamaさんは何かしらもの足りない印象をお持ちだったのですね。
自分の「違和感」というのは、たぶんもっと感覚的、それも個人的な好みの問題と思われます。
よくわからないコメントですみません。
今後とも因幡屋ぶろぐをよろしくお願いいたします。ありがとうございました。