*平田オリザ作・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 27日まで
自分の故郷は山口県である。18歳までそこで育った。漠然とだが、恋とか愛とかいうものは、標準語で話されるものだと思っていた。言い換えると自分が日常使っている言葉で語る恋や愛がまったく想像できなかったのである。
本作は平田オリザと地域の劇場が連携し、それぞれの劇場から発信する試みの集大成だ。その土地に長期滞在して舞台を作ると同時に、小学校での演劇ワークショップや講演会なども行ったそうである。多くの方々が真摯に関わり、地道な積み重ねによって実現した舞台と言えよう。青森、三重、広島、熊本、盛岡、関西、帯広。そして英語によるリーディング。合計で8つのバージョンが一挙に上演される。舞台装置もそれぞれに違う。劇場ロビーにミニチュアの展示があって、それぞれの劇場に合わせて、例えばテーブルの形ひとつにもこだわりと思い入れが感じられる。まずは自分の故郷山口にいちばん近い広島編を選んだ。
《ここから少し詳細な記述になります。未見の方はご注意を》
朝目覚めたら突然「夫婦になっていた」若い二人昇平(坂田光平)とすみえ(池田あい)がいる。昇平の兄とすみえの姉は夫婦なので、二人は親戚関係ではあったが、そういう気持ちは全くなかったらしい。不条理劇のような展開である。しかも兄と姉は離婚の危機に瀕している。酔ったはずみに一夜を共にしてしまったというのならわかるが、若い二人は口を揃えて「目が覚めたら夫婦になっとった」と言うのである。兄たちは「夫婦になっとったいうのは、どういうことか」と問いつめるが、「だって夫婦になっとったんじゃもん」と繰り返すばかり。「結婚していた」ではなく、「夫婦になっていた」という表現がこの話を考える鍵のひとつだろう。若夫婦(?)が具体的なことを話さないのがもどかしいが、言葉に表現できない何かをもって、「夫婦になった」と認識していることは伝わってくる。
本作は恋や愛の話がベタに出てくるわけではないが、最初は縁もゆかりもなかった男女が出会って共に暮らすことがどういうことか、誰に教わったわけでもなく、誰かが意識して計画的に作り上げたシステムや法則でもないのに、連綿として続く営みが何であるかを考えさせる。冒頭書いたように、故郷の言葉で語られる恋や愛は想像できず、これまで方言で書かれた映画やテレビドラマや舞台をみるとき、日常の言葉がフィクションの世界で話されるのを聞くのはどうにも気恥ずかしさがあったのだが、今日の舞台は自然にみることができた。出演俳優さんのうち、兄役の河村竜也とその妻役の田原礼子は青年団所属だが、発音といいイントネーションといい、地元の俳優さんかと思うくらい抜群であった。むしろ若夫婦のほうが、前半は互いに標準語が交じったりして、やはり突然「夫婦でなった」りすると、言葉も硬直してしまうのだろうか。
方言で書かれた話は、とかくその土地独特のカラーが前面にでやすく、いわゆる「コテコテ」のお芝居になりがちであるし、みる自分は俳優の発音やイントネーションが気になって集中できないことが多いが、はじめて自然に楽しめる、自分の故郷に近い言葉で話される舞台に出会えた。できればあといくつかみたいものであるが…。
自分の故郷は山口県である。18歳までそこで育った。漠然とだが、恋とか愛とかいうものは、標準語で話されるものだと思っていた。言い換えると自分が日常使っている言葉で語る恋や愛がまったく想像できなかったのである。
本作は平田オリザと地域の劇場が連携し、それぞれの劇場から発信する試みの集大成だ。その土地に長期滞在して舞台を作ると同時に、小学校での演劇ワークショップや講演会なども行ったそうである。多くの方々が真摯に関わり、地道な積み重ねによって実現した舞台と言えよう。青森、三重、広島、熊本、盛岡、関西、帯広。そして英語によるリーディング。合計で8つのバージョンが一挙に上演される。舞台装置もそれぞれに違う。劇場ロビーにミニチュアの展示があって、それぞれの劇場に合わせて、例えばテーブルの形ひとつにもこだわりと思い入れが感じられる。まずは自分の故郷山口にいちばん近い広島編を選んだ。
《ここから少し詳細な記述になります。未見の方はご注意を》
朝目覚めたら突然「夫婦になっていた」若い二人昇平(坂田光平)とすみえ(池田あい)がいる。昇平の兄とすみえの姉は夫婦なので、二人は親戚関係ではあったが、そういう気持ちは全くなかったらしい。不条理劇のような展開である。しかも兄と姉は離婚の危機に瀕している。酔ったはずみに一夜を共にしてしまったというのならわかるが、若い二人は口を揃えて「目が覚めたら夫婦になっとった」と言うのである。兄たちは「夫婦になっとったいうのは、どういうことか」と問いつめるが、「だって夫婦になっとったんじゃもん」と繰り返すばかり。「結婚していた」ではなく、「夫婦になっていた」という表現がこの話を考える鍵のひとつだろう。若夫婦(?)が具体的なことを話さないのがもどかしいが、言葉に表現できない何かをもって、「夫婦になった」と認識していることは伝わってくる。
本作は恋や愛の話がベタに出てくるわけではないが、最初は縁もゆかりもなかった男女が出会って共に暮らすことがどういうことか、誰に教わったわけでもなく、誰かが意識して計画的に作り上げたシステムや法則でもないのに、連綿として続く営みが何であるかを考えさせる。冒頭書いたように、故郷の言葉で語られる恋や愛は想像できず、これまで方言で書かれた映画やテレビドラマや舞台をみるとき、日常の言葉がフィクションの世界で話されるのを聞くのはどうにも気恥ずかしさがあったのだが、今日の舞台は自然にみることができた。出演俳優さんのうち、兄役の河村竜也とその妻役の田原礼子は青年団所属だが、発音といいイントネーションといい、地元の俳優さんかと思うくらい抜群であった。むしろ若夫婦のほうが、前半は互いに標準語が交じったりして、やはり突然「夫婦でなった」りすると、言葉も硬直してしまうのだろうか。
方言で書かれた話は、とかくその土地独特のカラーが前面にでやすく、いわゆる「コテコテ」のお芝居になりがちであるし、みる自分は俳優の発音やイントネーションが気になって集中できないことが多いが、はじめて自然に楽しめる、自分の故郷に近い言葉で話される舞台に出会えた。できればあといくつかみたいものであるが…。
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