*ハロルド・ピンター作 喜志哲雄翻訳 寺十吾演出 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 25日終了
『誰もいない国』は、2012年のハーフムーンシアター公演を観劇しているものの、残念ながら今回活かせる手ごたえはなさそうである。今回は寺十吾の演出、柄本明に石倉三郎ががっぷり組み、そこへ有薗芳記、若手注目株の平埜生成が共演という話題の舞台だが、自分にとっての問題はふたつある。
まずは「水」である。舞台奥にハースト(柄本)の寝室が作られており、そこの床には水が湛えられている。のみならず劇中何度も天井から水が落ちてくるのである。台詞やト書きにないが、その作品が象徴するもの、底流にあるものを具体的な何かに託して舞台に乗せるのは、演出の意図を観客に示すため、作品への理解をより確かにするためであろう。しかし、そこに何を、どのように持ち込むかについては、慎重の上にも慎重であってほしい。うっかりすれば、観客の想像を阻み、舞台をじゅうぶんに感じ取れなくなる可能性もあるからだ。しかもそれが演じる俳優にとって負荷となり、観客の視聴覚に少なからぬ影響を及ぼすもの、今回で言えば本水を使うことには、非常に困惑するのである。
終幕、ハーストが「私は湖に向って歩いている(中略)。水中に浮かんでいる人間の身体が見える」、「誰かが溺れているのが見えた。でも私の間違いだ。そこには何もない」という非常に詩的で美しい台詞がある。それだけでじゅうぶんではないか。
つぎはスプーナーを演じる石倉三郎の台詞についてである。終始聞き取りにくかったのは自分に原因があるのだろうか。石倉の声や話し方じたいは非常に魅力的だが、リアルな翻訳劇の場合、純日本風の台詞術でよいのか。2011年の『ゴドーを待ちながら』で気にならなかったのは、描かれていたのが無国籍の荒涼たる劇世界であったせいかもしれない。さらに、スプーナーにはいくつかのモノローグがある。ハーストとの力関係において、話し方を変容させるこの役にとって、モノローグをどのように発するかはむずかしい問題だろう。 前半に登場する「ハムステッド・ヒース」や「ジャック・ストローズ・カースル」などの固有名詞について、「よくゲイがやってくる」「ハッテン場」(台詞は記憶によるもので正確ではない)という台詞が付け加えられたのは、致し方ないであろう。
「小劇場」とはいえ、客席の後方から舞台まではかなり距離がある。また高い天井や奥行き、袖の十分ある構造からして、台詞を聴かせる舞台を構築することはなかなか難しく、何かを加えるよりも逆に勇気が(ときには「蛮勇」とも)必要かもしれないが、こちらとしては音楽や水、装置に気を散らすことなく、戯曲に勝負する演出家と俳優のすがたを見たいのである。題名の「誰もいない国」とは象徴的な意味合いをもって付けられたと思われるし、確かな自分の場所を持つことのできない男たちの一夜の攻防を、しっかりと聴き取りたいのだ。意義ある「蛮勇」をぜひ期待したい。
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